連続講演会「インフラ整備70年講演会~戦後の代表的な100プロジェクト~」(主催:建設コンサルタンツ協会)の第11回は、「日本の大動脈として経済の発展に貢献した社会基盤・東海道新幹線」。オリンピック前の世界に類を見ない大工事は、いかにおこなわれたか? 東海道新幹線に関わった建設レジェンドたちが振り返った。
記事初出:『建設の匠』2019年10月7日
取材協力/建設コンサルタンツ協会 インフラストラクチャー研究所
原 恒雄氏(元JR東海副社長、前人事院総裁)、須田 寬氏(JR東海 相談役)、藤井 浩氏 (元日本鉄道建設公団 理事)
まず東海道新幹線の歴史について語りはじめたのは原恒雄氏(元JR東海副社長、前人事院総裁)。東海道新幹線が開業したのは1964(昭和39)年10月のことだが、開業前には「鉄道斜陽論」があったと原氏は言う。
「斜陽論が唱えられた時代に、逼迫していた東海道本線の輸送力増強について、新たな在来線をつくる方法が常識的だったが、国鉄総裁・十河信二は標準軌かつ別線による、新たな高速鉄道をつくることを決め、強力に推進した。結果として東海道新幹線の成功は、その後の国内、あるいは海外の鉄道の高速化に非常に大きな影響を及ぼした」
開業後の23年間、国鉄の財政は厳しく、新幹線がさらに高速化するには至らなかった。輸送力の強化も限られたものだった。そんな中、国鉄が民営・分割され、東海道新幹線はJR東海に引き継がれる。その後、技術開発、抜本的な強化策を講じた結果、東海道新幹線は日本の大動脈として進化を遂げ、現在では日本経済にとってなくてはならない存在になったと話した。
日本の鉄道は1872(明治5年)、イギリスの指導を受けて新橋~横浜間に開通した。この「イギリス主導」がのちのちネックになる。というのも当時、イギリスが海外領土に使っていたレールの幅1,067mmのいわゆる「狭軌」の鉄道で出発したからだった。これは現在でもJR在来線で使われているほどで、広軌(1,435mm)に改築しようとしたものの、経費面から、結局断念せざるをえなかった。昭和になって走った特急つばめ号(東京~神戸間)も狭軌の枠内で挑戦したものの、最高時速100kmの壁を超えられなかった。
昭和10年代になると大陸諸国への輸送も増加してきたため、さらに東海道・山陽線の輸送力は逼迫する。昭和14年、国鉄は幹線調査委員会を設置。学識経験者の意見を聞きつつ「東海道・山陽道の輸送力をどうするか」という検討をした結果、「弾丸列車計画」が閣議決定され、着工する。
しかし太平洋戦争に突入し、昭和18年以降の工事は中断せざるを得なかった。しかし、日本坂トンネル、新東山トンネル、新丹那トンネルは一部着工していたため、それが戦後工事の遺産として役立つこととなったのである。
戦後、経済復興していく日本。しかし道路整備が遅れていたため、鉄道にかかるウエイトは非常に高かった。全国のかなりの貨物が東海道線に集中した。当然、戦前と同じような輸送力の逼迫が起きる。こうして新幹線についての議論がふたたび起きた。
戦前と違うのは、蒸気機関車による牽引ではなく、線路にかかる負担が少なく、高速運転も可能な交流電車にしようとなったこと。仙台と山形を結ぶ仙山線での非電化区間を使った実用実験の結果が活かされた。
珍しいのは、昭和32年の小田急電鉄のSE車を使用してのテストである。SE車は重心が低くて軽量化されており、非常に画期的な車両だった。これを国鉄が借り、函南~三島間で時速145kmをマークしたのだ。こうした様々な実験を重ね、電車による高速化の技術的な基礎を固めていったのである。
昭和31年、国鉄は有識者を集め「東海道線増強調査委員会」を設置、以下の3つの案を俎上に載せた。
須田 寛氏(JR東海 相談役)は「当時の国鉄はお金にゆとりがなかったので、速効的な1案と2案が有力だったと聞いている」と話す。わずかな投資で済む案でほぼ決まりそうだったのを覆したのが、十河信二国鉄総裁だ。昭和30年に総裁となった十河氏は南満州鉄道株式会社理事の経験から「これからの鉄道は広軌でなければダメなんだ。高速運転あるいは大量の輸送には絶対に広軌だ」と強く主張。それでもまだ、鉄道斜陽論が多数派で、慎重に検討すべきというのが当時の世論だった。
そこへ追い風が吹く。陸軍・海軍解体後、そこに所属していた超一流の技術者たちが鉄道技術研究所(現在のJR総研)に加わった。彼らの技術力は高速鉄道開発に非常に大きな貢献をしたのだ。研究所は東京・銀座のヤマハホールで講演会を開き、そこで「広軌における時速250kmの高速運転は可能で、東京~大阪間なら3時間運転も可能だ」という見解を発表。これが非常に大きな反響を呼び、新幹線をつくるための世論形成を後押ししたのである。
昭和34年4月20日、東海道新幹線の新丹那トンネルで起工式がおこなわれた。……そうはいっても新丹那トンネルは戦前に数百m、掘り進んで止まっていたので、すでに完成したトンネル入口の前で起工式をおこなうという不思議な光景がそこにあった。
その後、早急に完成させた鴨宮~綾瀬間のモデル線区間でさまざまな実験がおこなわれた。車内を気密構造化しなければ、トンネルに入ったときに乗客の耳に痛みが走り、車内の天井が波打つというような異常現象も分かってきた。
実はこの段階で、世界銀行から日本円にして約300億円を借り入れている。「国が新幹線工事を保証することが内外に示されたという意味において、世銀の借款は非常に大きな意味があった」と須田氏は話すものの、世銀は貨物輸送を追加するよう強く主張。実際に工事の着工まで進んだが、工事が遅れているあいだに貨物をめぐる経済環境の変化等により実現せずに終わったのだとか。
さらなる問題は、用地買収だ。東京オリンピック等によって用地代や工事費が高騰。「結局1,948億円どころではなく倍の工費がかかった」と須田氏。「お金がなくなって駅プラットホームの屋根が6両分しかなく、傘をさして新幹線を待つような駅さえあった」というほどだ。
最後は名称だ。「東海道線の複々線化」で認可を受けていたため、あくまでも東海道線という名前はそのまま付けなければならない。そこで正式名称は「東海道本線(新幹線)」、営業上の線名は「東海道新幹線」、英語もそのままの「Tokaido Shinkansen」で開業したのだった。360両しかない車両を使い、60本/日のダイヤでスタートした。当時の普通車で料金と運賃を合わせて東京・新大阪間約3,000円。当時、航空機が6,000円だったので、その半額だ。「これが当初新幹線をよく利用いただけた大きな理由ではないか」と須田氏は分析する。
この東海道新幹線によって、当然ながら時間短縮の効果が生まれる。当時、国鉄が乗客が在来線に乗るより東海道新幹線を使ったら時間価値がどれだけ短縮されるか計算したところ、当時のお金で年間2,500億円の節減が行われていることが明らかとなった。現代に換算すれば、兆に近い時間節減効果があったということになる。
そして、沿線の新幹線開業後、あきらかに沿線に工場立地等が増えたという。「新幹線が地域の開発に大きく貢献した」と須田氏。「東海道新幹線の駅を中心にして、経済集積、社会的な集積が行われた。交通機関同士でも新幹線が中核となり、東海道の輸送システム産業の一環としての位置づけが得られたことが、成功の大きな理由。そして、新幹線はまちづくり、国づくりに大きく貢献できた」と語った。
馬場亮介氏(元JR東海 常務取締役)、西條 勇氏(元安藤ハザマ)、葛西敬之氏(JR東海 取締役名誉会長)、家田 仁氏(政策研究大学院大学 教授)
昭和36年から39年まで建設に参画した藤井浩氏(元日本鉄道建設公団 理事)でも、当時は新幹線がいかなるものなのか理解できなかったそうだ。ただ、踏切が一切ない鉄道というのは非常に安全上いいと思っていた。また「十河総裁が懸命にその必要性をアピールしていたことが思い出だ」と言う。
用地買収担当者の、夜に交渉に行って門前払いで会ってもらえず、翌朝になってまた会いに行くという「夜討ち朝駆け」の積み重ねで、やっと新幹線ができたのではないか……といまも考えるのだとか。
東海道新幹線をつくる際に、まず路線選定をおこない、工事体制をつくった。それに携わったのは東京幹線工事局と静岡幹線工事局、名古屋幹線工事局、大阪幹線工事局という、4つの専門的な建設機関だ。
新幹線のルートは、戦前にできていた弾丸列車ルートとほぼ同じルートである。東京の駅は、新宿、市ヶ谷、品川、皇居前広場の地下などを候補地としたが、現在の東京駅に併設することとなった。
東京駅から品川に至るまでの路線は工期短縮のため、用地買収と設計協議を極力少なくしたかったのだと語る。そこで在来線用地をできるだけ活用した。有楽町付近では在来線と並走しているし、品川~鶴見間では品鶴貨物線という線路の上に「直上高架」という世界でもあまり例のない2階建ての高架橋をつくったのである。
静岡地区の新丹那トンネル付近についてはトンネル工事こそ中止されていたものの、着工自体は戦前にされていたため、これを活用することに。名古屋駅周辺の市街地については市当局の協力ももらって用地を確保したそうだ。
名古屋から京都に至るルートで一番大きな問題は「鈴鹿山脈と通るのか、あるいは関ヶ原を通るのか」問題。当初は直線ルートで12kmの長大トンネルを掘る必要がある鈴鹿山脈ルートが優勢だった。しかしこれも工事費や工期の面から、雪害があっても関ヶ原ルートが選択された。
京都周辺については、大山崎駅付近の狭い区間について、阪急電車の付け替えをおこない、東海道新幹線をつくって、その上を阪急列車が一時的に走る、というような光景も見られたのだとか。
用地確保は新幹線建設の最大の難事だった。東京~新大阪間の515kmについては、すでに一部が弾丸列車計画で買収されていた。しかし未買収の用地である420km(960万km2)の用地を確保する必要があった。このために国鉄全体で約200名の用地専門家を教育し、技術職員と一体となって、104か所の市町村、5万人の地主や借地人・借家人と交渉した。
しかし用地買収は難航。「新幹線担当者は立入禁止だ」という市町村や「先祖伝来の土地を売ることはできない」「商売が駄目になる」「新幹線の騒音のために、牛乳の出が悪くなる」と住民に門前払いをくらうことも多々あったそう。国鉄が決めた補償費が足りないという話も出てきたほどだ。
技術的な問題もあった。後発の山陽新幹線や東北新幹線は、構成する土構造物が1割程度だったそうだが、東海道新幹線はそれらと比べて非常に多かった。当然、建設工事は手間がかかるし難工事もある。工期を短期間で完成させるために、設計方式が非常に重要なカギだった。そこで「スタンダード、シンプル、スマート」を三大原則として、長大河川についてはワーレントラス、高架橋は標準設計を使って新幹線の設計にあたった。
都内は特に市街地密集地のため、どこも難工事だった。
大田区馬込では、地下を地下鉄が、その上を貨物線が、その上を第二京浜国道、そしてその上を新幹線が通るという四重立体交差だった。しかも国道は1日あたりの自動車交通量8万台という幹線道路である。
高架上で複線ローゼ桁を組み立てて架設を待ち、ある晩、国道の交通も貨物線も全面ストップさせた。引出し式架設工法によって、全長86.4m、重さ580tあまりの桁を少しずつ動かし、架設させたのだ。
この品鶴線直上高架橋を施工した西條勇氏(元安藤ハザマ、建設当時は24歳)も、高さ16mの大型特殊ゴライアスクレーンなどを使用するなど、施工の苦労を語ったのだった。非常に困難な工事だったが、大きなトラブルもなく、また沿線からの苦情もほとんどなかったそうだ。
続いて東海道新幹線の軌道について話す馬場亮介氏(元JR東海 常務取締役)。計画当時の列車の速度は、狭軌の在来線の速度で110km/h、海外の広軌でも130km/h程度。時速200km/hを超える速度は世界的にも未知の領域だった。
「『まったく新しい軌道構造にしては?』という声もあったが、設計から完成まで、短期間でやらなければならず、建設費も非常に限られていたこともあり、十分に実績や経験のある軌道構造を基本方針にした」と話す。
鴨宮のモデル線では、レールが破断したときに列車がうまく乗り越えられるかなど、万一の状況を想定した安全の確認もおこなった。レールについては列車通過時の振動、衝撃が軌道を破壊する最大の要因であるため、ロングレールを採用。絶縁部を真ん中に設け、レールを伸縮させ、全体に負担がかからないような伸縮継目を開発して、導入した。橋梁上もロングレールにしたのは世界初のことだ。
しかし苦労もあった。あまりに突貫工事だったため、簡便で機動性に富んだテルミット溶接を一部に採用したものの、若干の施工不良も生じ、開業後のレール損傷の一因になったそうだ。一方で、プレストレストコンクリートの枕木は、健全性が心配されたが、製造過程でコンクリートの管理を厳密に行った甲斐あって、50年経った現在でも、健全な状態を保っているのだという。
JR東海が発足したのは東海道新幹線開業24年目のことだ。しかし国鉄時代に累積した赤字のせいで技術はあまり進歩しておらず、さらに構造物もかなり酷使されていた。当時、JR東海の取締役総合企画本部長だった葛西敬之氏(現JR東海 取締役名誉会長)は、「東海道新幹線は10年は持つ。しかし20年後はもしかすると、取替が発生するかもしれない、というのが土木専門家の見解だった」と話す。
「輸送力的には、4分に1本の列車運行で、1時間に15本の列車が走る。そのうち4本は車庫に出入りする回送列車なので実質11本の営業列車が走るが、すでにひかり6本、こだま4本の計10本を走らせていたので、輸送力は限界に近かった。一方で航空は広島、岡山、関西国際空港の建設が進んでおり、さらに羽田空港の滑走路の拡張が行われていたので競争条件は厳しいという状況だった」
その中で、さらに大きな問題だったのは多額の債務だ。東海道新幹線を含む新幹線の地上設備、車両以外のすべては、新幹線鉄道保有機構という特殊法人が所有していて、その特殊法人が国鉄の債務である約8兆5千億円を引き継いだ。その後、新幹線鉄道保有機構の解体により、そのうちの5兆円あまりをJR東海が引き受けることになったのだ。
「リスクは債務」だとして、債務返済を優先するか。東海道新幹線の競争力を強めることに優先順位を置いて、設備投資を積極的に行うか。あるいは、その両方をバランスをとって行うかー。3つの戦略のうち、JR東海は「国家的使命、大動脈輸送を万全化するために、捨身で設備投資に取り組む」という道を選んだ。
「非常にリスクテイキングだったが、『設計図の悪い飛行機が飛ばなければ、設計した人が直せばいい』とし、我々はリスクをとって使命を優先する方向を取った」と葛西氏は振り返った。
「現在、20年後、そして50年後の未来を追求するのが、鉄道経営の基本だ」とする葛西氏。利便性を守りつつ、対テロや災害などに対する安全性も守る。その連立方程式をどう解くかが日々の課題なのだという。
JR東海発足時に「20年後の未来」に向けた戦略として考えたことのひとつが高速化(270km/h化)だ。カギを握ったのが車両軽量化で、900~1,000トンあった車両を、700トンにまで軽くした。これによって省エネルギー化を達成したのと同時に、構造物の寿命延伸を達成。また車両の仕様統一も行い、1号車から16号車までの車両座席数をすべて統一し、汎用性を高めたのだ。そして品川駅新設により首都圏のアクセス性を高めて、競争力を向上した。
また、積極的な設備投資により現在は1時間に15本の営業列車の運行が可能になった。さらに外部経済効果取り込みの試みとして、名古屋駅にJRセントラルタワーズを建設したことも忘れてはいけない事実だろう。
そして、50年後の未来を見据え、リニアの技術開発、中央新幹線の建設に取り組んでいる。これも「JR東海発足当時からの計画」だというのだから驚かされる。葛西氏によれば「整備新幹線の建設計画が凍結されていく状況で、『中央新幹線をつくろう』という話はなかなか言いにくかった。だからまずリニア開発本部において技術開発から手を付けることにした」のだとか。
そしていま、東京~大阪間の自己負担での建設・運営を公表したJR東海は、その工事に邁進しているのである。
最後に家田仁氏(政策研究大学院大学 教授)は総括した。「東海道新幹線とはなにか?」を―。
既存技術による無理のない範囲で最適設計をおこなったこと、在来線システムから独立させるという思い切った判断をしたこと、合理化・標準化を追求したシステムなどを成功の要因として挙げた。
そして東海道新幹線はなにをもたらしたのか。「フランスのTGVをはじめとして、世界中に鉄道回帰と高速鉄道化のトレンドをつくったこと、日本国内に新幹線建設ブームを生み出したことだ」とした。
また、中央新幹線と東海道新幹線の比較として、「東海道新幹線は東海道本線のバックアップ的役割として生まれ、中央新幹線は東海道新幹線のバックアップとして期待されている。その点が似ている。逆に似ていない点は、東海道新幹線がトラッドな技術の集合体なのに対して、中央新幹線は世界で類のないまったく新しい技術の結晶であること」だと話した。
最後に家田氏は、「東海道新幹線から若い人たちはなにを学べるか」として、「在来の東海道線の逼迫から巨大プロジェクトを生み出したような問題解決に対しての責任感。当時の劣悪なインフラを正しく認識した自己認識力。当時世界に蔓延していた鉄道斜陽論に迎合しない知的俯瞰力。世界に目を向けてよく勉強した上で「オリジナルをつくろう」とする気概。現状に甘んずることなく、常に進化を目指す垂直展開思考などが必要」とした。
「当時の東海道新幹線のプロジェクトは、日本人と世界中の鉄道人に希望と自信を与えた。我が国の鉄道技術と組織文化を問い直し、令和の時代に次の飛躍をすべきではないか」という家田氏の締めくくりのことばに、大きくうなずいた鉄道マンはきっと多いはずだ。