みなさんにぜひとも言っておきたいことは、いろいろなことを「わかったこと」にしないことです。本当は「わかっていない」んです。わかっていないことをわかったつもりでいる。とくに今の時代、建築家としてそれは許されません。わからないことをわかるように最大限努力する。それでもわかったつもりにならないこと、それが大切です。
出典:森美術館「世界デザイン会議」とメタボリズム 「メタボリストが語るメタボリズム」
建築家・菊竹清訓氏(1928年4月1日~2011年12月26日)のことばを反芻しながら、編集部の中の人(以下、筆者)は宮崎行きのソラシドエアに乗っていた。目指すは旧都城市民会館だ。
旧都城市民会館とは、カタツムリのような外観が特徴的な菊竹氏によるメタボリズム建築である。市内外を巻き込んだ10年以上の「解体か保存か」議論の末、今年(編注:本記事は2019年7月に公開されました)3月に解体が正式に決まったのだが、解体前の6月末、都城市主催の見学会が開かれることになった。それに思い切って申し込んでみた次第だ。
記事初出:『建設の匠』2019年7月10日
この建築をはじめて知ったのは、たしか建築ライターのロンロ・ボナペティさんのツイッターだった。「こんなヘンテコな形の市民会館があるのか!」と驚いた記憶がある。
なぜ、これまで行ったことのない宮崎県の都城市へ、解体される建築をわざわざ見にいこうと思ったのか。それは、解体までになぜここまでの大騒ぎになったのか、専門家ではない一般市民は実のところどう思っているのか――そしてあの建築は、われわれになにを残したのか。それがどうしても知りたかった。
東京でインターネットを見ながらやいのやいの言っていても分からないことがあるはず。24時間程度のわずかな滞在でもいい、できるだけ街の空気を肌で感じたかったのだ。
宮崎空港から高速バスで1時間乗り、午前10時頃、都城駅近くでバスを降りた。天気はくもり。いずれ雨が降るらしい。終点の西都城駅まで乗っていけば旧都城市民会館はすぐ近くだったけれど、さいわい見学会にはまだ時間があったので、30分ほどかけて、市内を歩くことにした。
都城市は宮崎県第二の規模を誇る都市だ。ロードサイドにはチェーン店がならび、びゅん、びゅんとクルマが走る。愛知県の実家あたりに似ていて懐かしくなる。しかし、歩いているのはほぼ筆者ひとり。思い返せば、カメラを持って目をぎらぎらさせた中年の男は、たぶん怪しかったと思う。こんな朝から不審者かよと思った市民のみなさんに、この場を借りてお詫びしたい。
「日本一の肉と焼酎、とっておきの自然と伝統」を売りにする都城市だが、市街地を歩くかぎりは、そこらで牛が歩いているわけでもなく、焼酎をつくっているわけでもなく、当たり前だけれどふつうの街だ。
いずれ雨が降るからか、あるいは盆地だからか、じめじめとした暑さだ。じわっと汗をかきながら歩いていくと、ようやく見えてきた。トゲトゲが。
分かりにくいので近くまで来てもう一枚。
いやはや、遠くから見ても分かるこの異様さよ。
せっかくなので、もう少し周囲を歩こう。県道31号線(ゆずり葉大通り)を歩き、西都城駅まで。
左に見切れているのが旧市民会館
都城市総合福祉会館の向こうに旧市民会館が見える
……さあ、いよいよ見学会だ。
午後12時の見学会の写真や様子は、こちらにまとめているのでご覧いただきたい。
お恥ずかしながら、筆者は建設に特化したメディアをやっているくせに、建築についての専門的素養がない、つまり学問を修めていない。現場経験もない。だから門外漢が知ったふうに語るのもくちはばったいな……と思って、旧市民会館は専門家が言うとおり、まごうことなき「名建築」とし、この記事ではそのほかのことを書こうと考えていた。
しかし、実物を目の当たりにして湧きあがってきた疑問。これは「都城市民にとって」、本当に名建築だったのだろうか?
なにしろ、ホールの天井=屋根だ。まさにテントみたいなもので、そりゃ雨漏りもするだろうし、「大雨が降ったら演奏が聞こえない、サイレンで演奏を中止する」なんてもはや悪いジョークだ。
低予算でつくられたとはいえ、早期から雨漏りしていたという話を聞くと、現代のニッポン(特に東京23区)だったらやれ欠陥建築だ、設計ミスだ、手抜き施工だと総スカンをくらい、建設やり直しをさせられているんじゃないかとさえ思ってしまう。
市民の税金で建てられた以上、「ちゃんと防音されて、雨漏りしないふつうの市民会館がほしい」と思う市民の気持ちもまた尊重されるべきだろう。それをさておいて、「都城市民は珠玉の菊竹建築の価値が分からんのか!」と外野に文句言われる筋合いはないよな……とヨソモノである筆者は素直に思いました。
旧市民会館は全国建築関係者にとって「菊竹氏の名設計」であっても、「都城市民にとっての名建築」ではないのかもしれない……いや、言い方はよくないけれど「迷建築」だったのかも。
あと、控えめに表現してもこの時の旧市民会館は、「廃墟」としか言いようがなかった。
10年以上、人間が使わなかった建築にはまったく生気が感じられない。こんな骸(むくろ)のようになってしまった建築を見ると悲しくなった。やはり「人が使ってこその建築」なんだな、と痛感する。
午後3時。見学会後、旧市民会館周辺をぐるぐると歩きまわっていて、この施設一帯が周囲よりやや高台にあることに気付いた。旧市民会館の向かいにはこんな看板が立っていた。
「現在地」を取り囲むようにした西~南の色が付いた地域は、市内を流れる大淀川堤防が決壊した際に浸水するおそれがあるという。
実際、この取材の1週間後である2019年7月1日に九州南部を襲った豪雨によって、都城市宮丸町が冠水したばかりだ。それから2日後の7月3日にも、大淀川が増水し氾濫危険水位を超え、市役所のある姫城地区にも避難指示(緊急)が発令された。その一次避難所には「総合社会福祉センター」が設定されている。
総合社会福祉センターは、旧市民会館の対面にある施設だ。浸水の心配もなく、避難場所として最適な立地である。
気になったのは、その福祉センターのすぐ真正面に、旧市民会館が「避難場所に使えない広大な公共施設」として建っているという事実だ。
2011年の新燃岳噴火の際には災害義援物資の保管庫になったというし、10年前の「都城島津邸」オープン前には島津家農具などの一時的な倉庫になっていたそうだ。とりあえずの倉庫として役には立っていたらしい。
しかし、施設内に人は立ち入れない。仮に豪雨や台風、地震などの被災者によって、総合社会福祉センターのキャパシティぎりぎりになった、あるいは避難が長期化したとしよう。避難した被災者に「ねえ、あの避難場所として使えない市民会館は、本当にこの街に必要なの?」と詰められたら――自分が市の担当者だったら、おそらく言葉に詰まる。
避難場所にもなれない公共施設に、はたして価値があるのだろうか。
またそれと同時に気になったのは、旧市民会館に専用駐車場がないこと。
宮崎県の1966年の総人口が107万6,900人、2018年は107万9,727人なのに対し、自動車保有台数は約5万台(1965年)から約94万台(2018年)と激増している。
県内第2位の都市である都城市は、1965年には約16万人だった人口は増減を繰り返しつつ、2019年時点でも16万人台だ(平成の大合併による増加分含む)。都市部ではクルマ離れなどと言われるが、地方では家族内の免許保有者数分だけクルマを持つのが「当たり前」に近い。つまり、都城市の保有台数もおそらく激増しているだろう。
したがって、公共交通機関であるバスもマイカーに根こそぎ客を取られたんだろうなあ……と推測する。なんせ旧市民会館前の停留所でこの本数である。
福祉センターとの共用駐車場以外に駐車場を持っていないのは、いまのご時世では致命的だ。仮にいま、旧市民会館でコンサートが開催されたらどうなるのか。いや、百歩譲って駐車せず、家族に送迎してもらっても、その乗降のための一時停止だけで周囲のさして広くない道路は大混雑必至だろう。閑静な住宅地なので、住民から苦情がくるかもしれない。
この公共施設周辺の駐車場は足りているとはいいがたい。旧市民会館を継続的に運用させるなら、福祉センター駐車場に立体駐車場の増築が必要だ。その建設費は……どうするんだ?
近くの宿泊施設フロントに聞き込み取材をしたら、そこで従業員の男性はこう話してくれた。「文化ホールが駅前にできるまでは、都城市では市民会館というか、多目的に集まるところは、ここしかなかったんです。だからコンサートとかで賑わったことも昔はありましたので。ええ、専用(駐車場)はないですね。いまは都城市内はひとり1台で何事も車で移動なので、都会とは違って……」
「ここ2、3年、建築関係や大学の方、ツアーではないけれど(旧市民会館を目的に)見に来られた方も何件かありました。市民のひとりとしては残してほしいというのが願いですけれど、維持費とかを考えると、解体もやむを得ないのかな。ちょっとなんとも言えないですけどね」と複雑な表情だった。
「廃墟ですよ、あれは。もういらない」と言い切ったのは近隣のお店を経営するご夫婦。彼らもまた、「駐車場がなくて、みんなあたふたしてましたよ」と話していた。
「宮崎とかよそから観光に来られるけど、この街はクルマで素通りの街ですよ。みんな霧島に行ったり、鹿児島に行ったり。ここに泊まって、何をするっていう街じゃないですね」と奥さんが言えば、「もう15年ぐらい使わんなあ。15年ぐらい前はいろいろタレントが見に来たり、いろいろあった。最近はもう、全然見ないです」とご主人。「市民会館として、昔は有名やったんですけどね。時代が変わったんです。役割を終えたんだ」と断言した。
ちなみに、旧市民会館のすぐ近くには小学校がある。すぐそばに街の死角となるような巨大な廃墟が存在することに、防犯上の心配はないのだろうか。
見学会の折、市担当者に尋ねたところ、「地元住民から『こういった廃墟的な施設があるのは怖い』とか『なかに若者が入って、たむろしたりもするのはよくない。このように放置するのはやめてくれ』という声はすごくいただいていた」とのこと。
そこで管理していた学校法人が階段入口に有刺鉄線を張り巡らし、侵入禁止にしたらしい。それでも、カップラーメンの容器が転がっていたりしたんだとか。
たしかに夜には真っ暗なカタマリと化す廃墟をこのまま放置しておいていいのか、と子どもを持つ親のひとりとして思ってしまう。そこに名建築であるかどうか、の観点はあまり関係ない。
この10年以上の放置によって、旧市民会館は「市民のための施設」の役割も失ってしまった。そう感じずにはいられなかった。
見学会が終わった17時過ぎ、ついに激しい雨が降り出した。旧市民会館を含む都城の街は、一気にずぶぬれになった――。
二日目。見学会翌日の月曜日、近くの市役所に足を運んだ。開庁日なので展望室に入れるからだ。都城市のマイナンバーカード申請率・交付率は全国の市区町村で第1位らしい。あと2016、2017年度のふるさと納税日本一でもある。マイナンバーカードを持ってすらいない筆者は素直に感服します。
展望室から見る旧市民会館は、ちょっと笑っちゃうぐらいの異形っぷりである。
せっかくなので、市の中心部に行ってみた。そこには都城市のもうひとつの異形な建築があった。
第三セクター・都城まちづくり株式会社による「ウエルネス交流プラザ」である。屋根の中は「ムジカホール」と呼ばれるホールだ。なぜこんな形をしているのかというと、ホールだけに楽器(ハープ)と都城市の地場特産品(大弓)をイメージしてデザインされているから。旧市民会館閉館前の2004年には竣工していたが、このムジカホールの席数は293席しかないので、1,500席だった旧市民会館ホールの代替施設にはなりえない。
そこで2006年、都城駅近くにできた前述の「都城市総合文化ホール」の登場というわけだ。この総合文化ホール、大ホール(1,461席)、中ホール(682席)を持つ。変なカタチの建物も、市民が使える大ホールも、都城市にはすでにあった。……つまり、旧市民会館の存在理由は13年も前になくなっていた。
話は大幅に飛ぶのだけれど、旧市民会館の存続に向けて、日本建築学会が2018年6月に「再生活用計画」を出した。この報告書では、建物の現状分析とともに、マルシェやオフィス、ミュージアム、さらに屋根を撤去した公園など、専門家視点からさまざまな活用案が提案されていた。
「そうか、リノベーションという考え方でなんとか生き残れるじゃないか」と思ったけれど、実はすでに都城市中心部にリノベーションの実例があった。
ウエルネス交流プラザのすぐ近くにある都城市立図書館。実はこれ、かつて「都城大丸センターモール」というショッピングモールだった建物をリノベーションしたものなのだ。
都城市は民間企業とともに「Mallmall(まるまる)」を建てた。2018年4月にオープンした図書館はそのコア施設である。
既存施設の「リノベーション」という発想が都城市で盛り上がり、結果、素晴らしい図書館ができあがったのだから、その機運に乗って旧市民会館も……と思ったけれど、市立図書館はショッピングセンター廃業後の市中心部の空洞化を避ける目的があったのだから、旧市民会館とはそもそも事情が異なる。
さらに皮肉なことに、2013~2016年の市立図書館計画~着工時、旧市民会館はというと、学校法人の管理下にあったのだ(2009年からの20年間無償貸与中)。そして皮肉なことに、市立図書館着工翌年の2017年、学校法人は「老朽化が進行し、学園が自ら活用することは困難」と市に返還を申し出た。
「どうせリノベーションするなら、名建築である旧市民会館の方をすればいいのに……」と一瞬勝手なことを思ったが、代替施設はすでに存在するし、図書館と旧市民会館の同時リノベ工事などできるはずもない。なにより「学校法人へ貸与中」だったせいで、リノベーションのタイミングを決定的に逸した。時すでに遅し、と言えるのかもしれない。
ともあれ、2007年の閉館から10年以上の“塩漬け期間”のあいだに、旧市民会館について原体験のない世代が生まれ、小学校高学年にまで成長した。新しい思い出は生みだされず、かつての記憶は風化していく。
日本建築学会の調査報告にもあるように、塩漬け期間は建築自体に直接的なダメージを与えなかったのかもしれない。しかし、都城市の新陳代謝(メタボリズム)から取り残されてしまったのは致命的だ。市立図書館を見学しながら、なおさら残念に思ったのだった。