地下神殿はなぜ誕生したのか
そもそもこの施設はなぜ誕生したのか。これだけ大きな施設をつくるには、さぞ江戸川や利根川のような大きな河川の氾濫に備えたものかと思いきや、さもあらず。
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記事初出:『建設の匠』2018年10月31日
写真/奥村純一 取材協力/国土交通省 江戸川河川事務所
地下神殿の守り人、長さんにあらためてインタビューする。
もともと利根川や江戸川と荒川に挟まれたこの地域は、昔から雨が降るたびに浸水被害に悩まされていた。地盤が低く、水が溜まりやすい皿のような地形だったのだ。さらにこのあたりを流れる中川や綾瀬川は、決して大きな川ではないものの、河川の勾配がゆるやかで水が海に向かって流れにくかった。加えて、首都圏に近いがゆえに人口が増えて都市開発が進み、土地自体の水の吸収率も低くなった。
それらが、この流域で浸水被害が頻発した理由である。
話は少しずれるが、実は東京・杉並にも、「神田川・環状七号線地下調節池」という地下施設がある。神田川、善福寺川、妙正寺川などの神田川水系の氾濫対策として、20年の歳月をかけてつくられたものだ。この施設と首都圏外郭放水路との違いは、リアルタイムで排水できること。「洪水調節池と一概に目的を比べるものではないんですが、ここでは『洪水を抜本的に解消しよう』という目的でつくられました」と長さんは話す。
かくして、13年の月日をかけて、世界最大級の地下放水路が誕生した。……最大級というが、他に類似施設はあるのだろうか。
「世界ではあまり例がありません。日本では、大阪で建設中の寝屋川放水路ですね。まだ地下に水を溜めるだけの機能しか有していませんが、完成すればこの施設よりも長くなると聞いております。」
「想定外」の災害が多い昨今だが、いまのキャパシティで大丈夫なのだろうか。
「難しいですね。想定外を想定してつくると、過大な施設になってしまうこともある」と長さんはちょっと眉をひそめた。たしかに、バランスは難しい。
当初、観光化するつもりはなかったらしい。この施設はもしかしたら機能を優先した、もっと無味乾燥な施設だったのかもしれないのだ。しかし、整然と並ぶ柱のフォルムやスポットライトの配置や光の当たり方が、偶然にも神秘的で荘厳な雰囲気を演出した。さらに特別公開でこの施設を見た人たちの大反響が、観光施設化へ大きく舵を切るきっかけとなった。
この荘厳な雰囲気は見学を意識してつくられたものではなかった。
そして近年の外国人観光客の増加や観光立国を目指す政府の方針が後押しした。
「見学会は以前から平日に1日3回、行っていました。それを2018年の8月から民間に運営を任せて、1日7回に増やしました。土日も開催しています。もっとオープンにしたんです。政府の方針として、国としても積極的に公共インフラを開放して、魅力をどんどん発掘していこうとなったので、見学会をさらにオープンにしました」
そう、2018年8月から首都圏外郭放水路は「日本一のインフラ観光資源」を目指して東武トップツアーズと連携し、民間運営見学システムによる社会実験がはじまった。
公開は1回につき50名で、1日7回、50分の見学ツアーが組まれている(編集部注:2021年11月現在、見学コースは4つに拡大)。平日だけでなく土日祝日も行われているのがありがたい。さらにこれまで非公開だった第一立抗が見学できるというのだ。また、これまではNGであった調圧水槽に水が溜まっていくレアな状態も見学できるようになったとか(ただし床面までは降りられない)。
取材時点(2018年10月)での来場者数は累計49万人。8月は夏休みということもあって、1万1,000人が来場した。「期待通りですね」と長さんも微笑む。さらにSNSや海外メディアを見てやってくる外国人観光客も増えてきた。長さんの印象としては、「全体の1割弱」だそうだが、決して便利とはいえない立地にもかかわらず、「ドウシテモミタイ!」と言ってわざわざ来場するのだから感服する。地下神殿の魅力は、きっと万国共通なのだ。
個人的な雑感だが、クリスマスや年越しカウントダウンなどの季節性の高いイベントや、カートレースやドローンレース、プロジェクションマッピングを駆使したイベントがあれば、さらに幅広い層にも受けそうだ。
地下神殿を護る誇りとよろこび
「地下神殿の中の人」として地元界隈でも有名な長さん。
長さんは、2017年4月からこの施設に配属となった。とはいえ、施設の存在はずっと知っていて、建設中に見に来たこともあったそうだ。
「はじめて見た時には、土木の技術屋としても『これはスゴイものを造ったな』と思いました」と語る長さん。
「見ていただいた調圧水槽は、神殿のような荘厳な雰囲気を持った構造物なんですけれど、それを神殿を意識してデザインしてつくったものではなく、洪水のための必要な機能を持たせた施設としてつくったにもかかわらず、美しさを兼ねそなえている点が、個人的にはすごく魅力的だと思っています」
いま、この“守り人”の仕事に就いてどんなことを思うのだろう。
「河川が増水しやすい6月から10月、いわゆる出水期というのは常に緊張感をもっています。天気予報や川の水位の状況を常に気にしていて、台風や大雨が降るという時は、夜でも雨の降り方などを気にかけている。そこは緊張感をもって取り組んでいます」
雨量が多く一定の水位に達すると、アラームが鳴る。そんな時は長さんをはじめ5~10人のスタッフが出勤し対応しなければならない。台風が多かった今年は、夜中の2時ぐらいに駆けつけたこともあるそうだ。
もちろん非常時だけでなく、平常時も気を抜くことはない。
「機械設備はちゃんと点検してないと、いざという時に動きません。毎月決まった点検を行っていますし、土木構造物についても異常がないか、出水期前に実際にトンネルの中を歩いたりして点検も行っています」
この施設に限っては今年は稼働することは少なかったが、台風による豪雨被害が頻発したこともあり、防災意識の高まりを感じるという。
「この地域の住民かどうかは分からないんですが、西日本で今年大きな被害があったのを受けて『首都圏外郭放水路のようないい施設があるのだから、西日本にもこのような施設をつくったらいいんじゃないか』というお問い合わせというか、ご意見をいただいたこともあります」
別の見方をすればそれは、同施設の役割や効果をじゅうぶんに理解し評価した肯定的な意見だともいえる。
これまで多くのメディアにも登場し、アーティストのミュージック・ビデオや特撮ヒーローの撮影にも使用される地下神殿。施設内の廊下には、これまで訪れた有名人のサインがところ狭しと飾られていた。有名人のサインが飾られた飲食店がとても美味しいで評判の店だと感じるように、PR効果は抜群だ。
「お客さんがサインを見て喜ぶんですよね。『あの有名人が来た施設に自分も来たんだ』って。そうやってもっと身近に感じてもらえば、施設の魅力向上に繋がっていくと思います」
地下神殿だけでなく、この操作室も戦隊モノの秘密基地っぽい。
すでに地域住民には広く知れ渡っていて、「地下神殿で働いているんです」と言えば話はすぐに通るらしい。近隣に住む長さん自身もテレビ取材を受けることがしばしばあり、誇らしい気持ちで勤務先のことを話せるという。
「いままで49万人が訪れていて、今年は取材や撮影の件数もすごく多くなっています。こうやって取り上げてもらえば、さらなる見学者増につながるので、やはり達成感があるし、やりがいを感じますね。かなり広報的に効果を出しているという実感も持っています」
この取材当日も小学生の子どもたちの見学会が実施されていたが、彼らはこの施設を見て何を感じただろう。建設技術者の不足が叫ばれる昨今において、首都圏外郭放水路の見学会における未来への波及効果を、長さんはひそかに期待している。
「いつか、このような人気のある魅力的な構造物に自分も携わってみたいという意志を持っていただけると、私としては非常にありがたいですね」
大雨で地上にあふれた水を、地下の巨大なスペースにいったん溜めて、調整しつつ逃がす。考えてみればきわめてシンプルで、意外なほどにアナログな施設である。
しかし、それを言うはたやすく、行うは難(かた)し。
大工事を経て完成させた人々の苦難はもとより、運営を続けていく人々の絶え間ない努力に思いを馳せつつ、一度は足を運んでみることをおすすめしたい。
地下神殿よいとこ、一度はおいで!!
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