高速道路がビルを貫いているのか、いや、ビルが高速道路をくるんでしまったのか――。
大阪市福島区にあるTKPゲートタワービル(以下、ゲートタワービル)の話だ。
世界的にも注目の的である同ビル。下の動画で「ハイウェイがビルを貫通している!なんてCool!」と興奮気味に動画でレポートされているぐらいメジャーな建築なのである。
この世界的にも珍しいビルはどのようにしてつくられたのか。独特な形状を施工する際にはさぞかし苦労があったはず……。
編集部は、施工に携わった佐藤工業大阪支店に突撃取材。当時の担当者で現在は安全環境室副室長の渡邊信夫さんに話を聞くことができた。渡邊さんは“トンネルの佐藤”として名の知れた同社において、建築一筋だった人物だ。
当時は入社15年目、主任として施工現場に立った渡邊信夫さん
さらに! このビルの建築主である末澤産業のご厚意により、竣工時につくられた建築模型の撮影に成功。この模型の写真を見ながら、渡邊さんとの対話を進めていこう。
末澤産業のオフィスに鎮座する1/200スケールの建築模型
記事初出:『建設の匠』2019年11月28日
ゲートタワービルは、1989年10月から1992年2月までおよそ28か月をかけて建設された。渡邊さんは10人ほどのチームの中で、所長や副所長の下、仮設やビル工事計画や品質管理などを中心に取り組んでいた。もともとは図面を描いていたけれど現場に引っ張り出されたそう。
そもそも、ゲートタワービルはなぜこんなカタチをしているのか。それは土地所有者である末澤産業と、そこに高速道路をつくりたい阪神高速道路公団の交渉の結果である。
「伊丹空港から梅田につながる阪神高速池田線が非常に混雑していたこと、かつ道路近くに位置する梅田に降りる出口をつくりたかったこと。それらによって出入口建設の話がスタートしたようです。
高速道路をつくるには用地買収してから建てるのが通常の流れなんですけれど、末澤産業さんも土地を売却したくはなかったみたいで、そこでちょうど立ち上がった『立体道路制度』にのっとった計画が進んだのです」と渡邊さんは語る。
「立体道路制度」は道路の上空だけを借りうけ、占有したスペースを建物などに利用する制度。バブル期の土地代高騰により用地取得が難航する中で、1989年に成立した。国土交通省のWebサイトでは「道路法、都市計画法、建築基準法の3つの法律を一体的に運用」と説明されている。
同じ大阪ならOCATやりんくうタウン(余談ながらこちらにも『りんくうゲートタワービル』がある)、東京なら渋谷マークシティや虎ノ門ヒルズ(&環状2号線)などがそれに該当する。土地所有者は土地を売却しなくて済むのが利点だ。
制度第一号としてさっそく活用したゲートタワービル。しかし言うまでもなく、施工する側は大変だ。「阪神高速道路公団と協議しながら、同時並行的に作業を進めていった」と渡邊さんは当時を振り返る。
「同じ敷地内で、阪神高速さんも高速道路桁を支えるピア(橋脚)をつくる工事を進めていました。通常だと、道路の桁は大きなクレーンを持ってきて夜間を利用して架設するんですが、ゲートタワービルでは建物の中を通るので巨大なものを直接架設するのが難しいこと、夜中だけでは工期もかかってしまうことが分かりました」
そこで阪神高速道路公団との協議の結果、ビルの外側にタワークレーンを建てて、鉄骨工事と同時に、桁をタワークレーンでつり上げられる荷重まで分割して載せていく案に落ち着いたのだとか。佐藤工業と阪神高速道路公団の見事な連携プレーが、そこで繰り広げられていた。
「阪神高速さんの業者さんが、自分たちの機械を持ってきてピアをつくっていました。我々も、地下工事を含めた鉄骨工事までは阪高さんのピア工事と調整しながら、限られた敷地の中でつくっていったような感じですね。
阪神高速さんからすれば、近接で建ち、かつ建物の中を通るなんて非常にレアなケースだったと思います。だから『第一号だし、お互いに協力してやりましょう』という感じでした」
阪神高速道路公団側は、当初送り出し工法を予定していたそうだが、いかんせん時間がかかる。そこで採用されたのが「細分割架構法」だ。高速道路を25ピースに細分割して、タワークレーンを利用してパズルのように組み立てる方法だ。
どちらか一方が速く進みすぎても、また遅すぎても困る。互いに横目で進捗を見つつ、話し合いをしながら進めていった。結果として、夜間工事で3か月以上かかるはずだった阪神高速道路の工期は、わずか日中5日間で完了したのである。
施工時に苦労したのは、実は目立つ高速道路貫通部分だけではない。渡邊さんたちを悩ませたのはそれより前の段階。地盤の問題である。
「基礎部分がけっこう軟弱だったんです。なおかつ常水面も非常に高いため、掘れば水が出るというボーリングデータもあった。しかし、地下2階まで掘削しなければならない。そこで山留め壁には『鋼管柱列工法』、山留め支保工には『RCリング』を採用しました」
山留め壁とは、地盤を掘る際に周囲の土砂や水が流れこんでこないようにするための壁だ。丸い鉄パイプを縦にズラリと打ち込んだ壁によって、地下水をくいとめることにした。
また通常、深い掘削であれば「切梁」という支保工(土圧を支えるための仮設突っ張り棒)を入れるが、鉄骨の切梁支保工を入れてしまうと掘削などの工事は非常にやりにくくなる。
そこで施工がしやすい鉄筋コンクリート(RC)のリング状水平切梁を3段に分けて架けた。これによってリング内の空間は空き、工事しやすくなった。いずれも、佐藤工業としてははじめての経験だった。
さらに、既存の阪神高速道路大阪池田線との近さも懸念材料だった。
「地下掘削部と稼動中の阪神高速のピアとは4メートルほどしか離れていないんです。そんな中での工事で当然、影響を与えるわけにはいかない。ビルが建った場合でも、その外装は1メートル強しか離れていない部分もある」
阪神高速道路公団は桁さえ架かれば、あとは粛々とビルへの振動対策や火災想定対策の作業をおこなうのみ。一方、佐藤工業は新桁だけでなく、近接し実際に稼動している大阪池田線にも気を遣わざるをえなかった。
地下工事の際にも、阪神高速道路ピアの沈下や傾斜に気を付けながら、慎重に進めたのだそうだ。
ところでこのビルを貫通している高速道路自体は、ビル内部にまったく触れていない。ビル内の5、6階で高速道路が文字通り浮いている状態である(高速道路上の鋼板シェルターを含むと5~7階を占有)。
だからこのビルに5~7階は存在しないことになっていて、地上16階・地下2階建てなんだけれど、建築基準法上は地上13階・地下2階建て。なんとも不思議なスペックである。
実にトンネル的なビルではあるけれど、ビルを貫通する高速道路のトンネル部分建設において、″トンネルの佐藤”の施工の技術は活かされていない。その高速道路の建設は、言うまでもなく阪神道路公団の担当領域だからだ。
しかし″トンネルの佐藤”の匠のワザは、意外なところで活かされていた。渡邊さんによれば、例の難航した地下掘削終了後、RCリングの解体がなかなかうまくいかず、そこで土木チームの知恵を借りたというのである。
「何発か、火薬を使って解体したんです。ただ『都心で火薬を使うことはまかりならん』という話もあったので、山岳トンネル工事で火薬を使うことに慣れている土木のメンバーに協力してもらって、許可申請手続きや安全対策などをおこなったと記憶しています」と語る渡邊さん。まさに“トンネルの佐藤”の面目躍如といったところだ。
また、ゲートタワービルの外観を特徴的づける22面体のアルミ製ルーバー。これは屋上機械室を隠すためのものだが、外側に足場がない状況で施工しなければならない。どうするか。渡邊さんいわく……。
「現場で鳶の方が『できるだけ上で余分な作業はしたくない。組めるものは下で組んでから、クレーンでそのまま斜めにして吊って、そのまま上で取り付けよう』と案を出してくれた。みんなとても協力的でしたね」
ちなみに初期パースの屋上部分を見ると、現在のゲートタワービルに備わっているものが見当たらない。屋上のヘリポートがないのだ。渡邊さんも、いつの間にかヘリポートが付く話になっていたなぁ、と目を細めていた。どれぐらい活用されたのかは不明だが、このヘリポートもこのビルの“ミライ感”を醸しだすためのいいスパイスになっている気がする。
さてこの建設工事、約30年経って、渡邊さんがいま思うこととは――。
「だいたいビルって、自分のところの敷地や技術など、自分のエリア内だけで完結するのが普通ですよね。でもゲートタワービルは阪神高速さんと調整しながら、お互いに『どうやってやればうまくいくだろう』と考えながら建設していった。それが最大の特徴ですね。
ただ、その後、第2号、第3号の事例がぞくぞく登場するかと思ったら、なかなかあんまりお目にかからなかったけれど……」
渡邊さんは現在、大学で建築学生に指導する身でもあるが、こんな笑顔でゲートタワービル施工の思い出を語っているに違いない。
バブルのまっただなか、時代がイケイケのタイミングで立体道路制度第一号が適用されたゲートタワービル。佐藤工業も相当力を入れていたことは、渡邊さんの言葉からもうかがえる。
「いまは建設業のイメージアップのために職場環境の改善や、働き方改革を積極的に進める風潮がありますが、この当時は当然、まだそんな空気はありませんでした。
そんな時代でも、このビル建設現場では『建設業のイメージアップは魅力ある職場づくりから』を謳い、職人さんの休憩所をつくる際に『喫茶店的な雰囲気にして、職人さんたちに談笑してもらおう』と。新聞や雑誌、テレビを置いたり、毎日の掃除はもちろん、コーヒーやお茶をサービスしたり……。当時とすれば、そこそこ時代を先駆けた施設だったんじゃないのかなぁ。
所長も非常に新しいもの好きな人でしたから、『コレ面白いやないか』という雰囲気で取り組んだんじゃないかな。いま見てみればどうってことないかもしれないけれど……(笑)」
休憩所内や場内にはクラシックBGMが流れ、仮囲いのデザインなどにも注力していたそう。現在さかんにおこなわれている建設現場イメージアップの先駆け的存在だったのだ。
渡邊さんの言葉を証明するかのように、佐藤工業はゲートタワービルの宣伝映像もつくっていた! 今回、その貴重な映像を広報部のご厚意で公開することができた。ぜひ、ごらんいただきたい。時代を感じさせるタイトルバックも注目だ。
「できあがった頃はあの界隈でゲートタワービルだけポツンと建っていたから、けっこう目立っていたんですけれどね」と渡邊さんはつぶやく。あれから梅田界隈のビルは猛烈に高層化し、ゲートタワービルは高さ的な面では埋もれていった。
それでも、ゲートタワービルは異彩を放つ。そのデザインには20世紀に描かれたミライ感が漂っているからだ。
そう、ここでのキーワードは″手塚治虫的ミライ感”。
高速道路が架設された頃、現場でインタビューを受けた所長が「手塚治虫氏が描いていたような近未来の世界が、自分が携わってここにできたかと思うと、感慨深いものがあります」と話したそうだ。
「そういえば、現場見学会を何度か開催しました。当時は危険だからとめったにおこなわないのですが、ゲートタワービルに関しては『せっかくこんな特異なビルができたんだから、少なくとも職員と関係作業員の家族ぐらいに限定して、見学会をやろう』と。最終的にはヘリポートまで上げて見学してもらっていました」
「ただ、『建設現場を見せるだけでは子供が飽きちゃうだろうから、記念品を渡そう』と、手塚治虫氏のイラストを入れた記念品のノートをつくるために虫プロダクションに許可をもらった記憶があります」と目を細めて当時を懐かしがる渡邊さん。
奇しくも、ビルオーナーである末澤産業との文面によるやりとりの中にも、こんな一文があった。
「(建築主である)当時の社長は高校の先輩だった手塚治虫氏の作品が大好きで、あのようなビルの形状に少年のころから憧れていたSFの世界の夢を託していたのだと思います」――。
ときは流れ。
わたしたちは、偉大なる先人が描いた未来社会に、現在進行形で生きている。クルマはまだ空を飛んでいないし、ア〇ムのようなヒューマノイドはまだ現れていないし、街ゆく人は銀色全身タイツも着ていない(これについてはユニク○の方が快適そうだ)。けれど、当時の未来予想図に描かれたゲートタワービルだけは、開発進む梅田地区において、その斬新さをまったく失わずにそびえ立っている。
ゲートタワービルのように夢あふれる“未来の建築”が、この先も生まれていくのを期待するばかりだ。