国民的アイドルといえば、嵐。国民的アニメならば、サザエさん。
では国民的建築家は? それはもう、隈研吾をおいて他にない。
2019年12月15日に竣工した新国立競技場は言うにおよばず、中目黒のスターバックス、明治神宮ミュージアム、渋谷スクランブルスクエア(低層部のデザイン)、はたまたスニーカーのデザインまで……。隈研吾建築都市設計事務所の作品は毎月のように発表されている。
彼の作風といえば、木材をルーバーなどに用いて過度の自己主張をせず、周囲の環境に溶け込ませる「負ける建築」だ。しかし今回ご紹介するのは、隈作品群の中でひときわ異彩を放つもの。東京・世田谷の東京都道311号環状八号線沿いに建つM2ビルである。
「M2」とは「第2のMAZDA」の意。自動車メーカー・マツダが1991年に新商品企画開発の拠点として設立した。そこではマツダの技術者が常駐し、訪れるユーザーと開発中の車両を肴にコミュニケーションを図っていた。秘密主義的な自動車開発に風穴を開けようとする画期的な試みだったのだ。
当時のマツダ担当者はそのシンボルたるビルの設計にあたり、「普通の建物だと不況になったらすぐに売却されてしまう」と考えた。そこで「M2持続のためにも、簡単に売却されないほどグウの音も出ないデザインを」と、気鋭の若手だった隈にリクエストしたそうな。
目を惹くのは、古代ギリシア中期の建築様式の一種であるイオニア式柱頭。閑静な住宅街で、それは異様だ。隈は「自分でも、事務所を始めて数年でよくあんなに大胆なデザインをする勇気があったなと思います」と当時を振り返る。それほどにチャレンジングで、気合の入った建築だったのだ。
しかし、当時の建築界からは批判を受けた。専門誌『新建築』上で建築評論家・桐敷真次郎氏が「『新建築』誌もこの作品の発表をためらった……」「建築界の批判は手厳しい。(中略)要するに、ちょっと手加減した袋叩きである」と書いたほどだ。
悪いことに、バブル崩壊によってマツダの経営状態は悪化し、M2は1995年に閉じる羽目に。ビル自体も2002年に売却されてしまった。勝てば官軍、負ければナントカというやつで、隈もあおりを受けて、しばらく東京での仕事が絶えたらしい。以後、M2ビルのようなテイストを見ることはなくなった。
で、個人的な意見で恐縮だが筆者はけっこう、いやかなり好きである、M2ビル。このビルからはなんだかほとばしるエネルギーを感じるのだ。
天皇即位の奉祝曲を歌った嵐だって、上半身スケスケの衣装でデビューした過去がある。ほのぼのした日常を描く「サザエさん」も初期は今観れば過激な笑いの嵐だ。そう、M2ビルがあって、いまの隈研吾がある。エネルギー放出のベクトルが変わっただけである。
現在の施設使用者は「葬祭場としては使いづらいところもありますけれどね」と微笑みつつも、M2ビルをできるだけオリジナルのままとても大事に活用しているそうで、発言の端々にこのビルに対する愛着がうかがえた。
さて、木製ルーバーを用いた近年の隈研吾作品はもちろん、「引き算の美学」を謳う現在のマツダのシンプルな自動車デザインやショールームにも、M2ビルの面影はない。彼らにとってはフタをしておきたい黒歴史かもしれない。
ただ、歴史に“if”はないけれど、マツダがバブル崩壊に負けずに業績好調だったら、M2が引き続き自動車開発やブランディングの拠点となっていたら――。M2ビルを設計した隈への評価も変わっていて、もしかするといまの彼の作風は、M2ビルをアップデートさせたものになっていたのではあるまいか。新国立競技場の意匠にもイオニア式柱頭が……?
渋滞する環八からM2ビルを見上げるたび、ついそんな妄想をしてしまうのである。
撮影協力/東京メモリードホール
記事初出:『建設の匠』2019年12月16日
建物名 | M2ビル |
発注者 | マツダ株式会社 |
設計者 | 隈研吾建築都市設計事務所 |
構造設計者 | 鹿島建設株式会社 |
設備設計者 | 鹿島建設株式会社 |
施工者 | 鹿島建設株式会社 |
竣工 | 1991年10月 |
構造 | 鉄筋コンクリート造 |