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首都高研究家・清水草一コラム【08】平成の首都高は“地獄の渋滞”克服の歴史だった

地獄絵図のごとき平成元年の首都高

現在の私は、高速道路マニアとして、ものすごくハッピーだ。この連載では文句ばかり書いているような気もするが、全体としてはウルトラハッピー。なぜなら、日本の高速道路は、この30年間でものすごく便利になったからだ! そこで、平成が始まった頃はどうだったのか、”地獄の記憶”を呼び覚ましてみよう。

記事初出:『建設の匠』2019年5月20日

 

平成は昭和64年1月8日に始まった。それは、バブル経済真っ盛りの頃。首都高の渋滞量がピークを記録(現在の約3倍)した時期でもあった。

01高いところから見ている分にはキレイなんですけれどね(写真/PIXTA)

昭和時代の首都高は、都心環状線から延びる放射線が、都市間高速道路(東名や中央道など)と接続していく過程だった。昭和46年に東名および京葉道路と、昭和51年に中央道と、昭和60年に常磐道と、昭和62年に東北道と接続。そのたびに「便利になった」と言われたが、そのたびに首都高への流入交通が増えたのだから、当然渋滞は漸増した。昭和62年には、都心環状線の外側を取り巻く中央環状線の一部開通もあったが(江北JCT-葛西JCT間)、特に内回り側は小菅-堀切間の欠陥設計によりすぐに大渋滞となり、「あそこだけは通るな」と言われる始末だった。

私は昭和55年の免許取得以来、常に首都高4号新宿線沿道に住んでいるが、当時の4号線上り渋滞というのは、それはそれは凄まじいものだった。幡ヶ谷入り口から都心環状線までの約8キロに、だいたい1時間弱かかった。つまり平均時速約10キロ。それが「首都高速駐車場」と言われた時代の現実だった。

02刻は進めど車は微動だにしない時代があったのだよ……(写真/PIXTA)

「そんなに混んでるなら下道を走れば?」

そう思われる方もいらっしゃるだろうが、当時は下道はもっと時間がかかったのだ。首都高で1時間なら下道だと1時間半。首都高の大渋滞にうんざりして、よく下道も走ったが、そのたびに強烈な敗北感に打ちのめされた。私が平成13年に『首都高はなぜ渋滞するのか!?』という本を出したのは、その頃の苦い記憶がベースになっている。

それが、今はどうか。幡ヶ谷入口には、霞が関までの予想所要時間が表示されているが、だいたい「10分」となっている。8キロに10分なら平均速度は時速48キロだが、実際にはもっと速かったりする! もう電車なんてまどろっこしくて乗ってられるか! というほど速い。

ただ、都心部は駐車場がバカ高いので、行き先にタダで止められる駐車場がない場合は、仕方なく電車に乗る。首都高なら10分なのに! と思うと悔しい。まあ首都高の前後の下道に多少時間がかかるので、なんだかんだで25分くらいはかかるが、それでも電車利用の半分で行ける。こんなハッピーなことがあるだろうか?

あとは救世主・外環道東京区間を待つのみ……!

いったいなぜこんなハッピーなことになったかというと、ネットワークが充実したからである。まず、平成5年にレインボーブリッジ(11号台場線)が開通。これで4号線上り渋滞が大幅に緩和されたのには本当にビックリした。

03やはり大正義レインボーブリッジである!

11号線は4号線とはまるで無関係に思えるが、これが開通したことで、それまで箱崎JCTに集中していた首都高の通過交通が分散され、ちょうど地球(都心環状線)の裏側に当たる4号線上りが最も恩恵を受けたのだ。これで、それまで1時間弱だった幡ヶ谷-霞が関間の所要時間は、だいたい半分になった。

平成14年には中央環状王子線が、平成平成19年と平成22年には中央環状新宿線が、そして平成27年には中央環状品川線が開通し、中央環状線が全線開通。幡ヶ谷から羽田空港まで30分で行けるようになってしまった! 信じられない! もちろんもっとかかる場合もありますが、混んでいるほうが例外的。昭和の終わりには、首都高が空いていると「どうしたんだ!?」と訝しんだのと真逆である。

平成元年2月24日の大喪の礼当日は、大々的な交通規制の予告により業務車両が劇的に減少して首都高がガラガラになり、「うおおおお、地平線が見える!」と打ち震えたが、当時、首都高が空いているというのは、それくらい椿事(ちんじ)だった。

首都高4号線上りが猛烈に空いたと書くと、怒る方もいらっしゃるだろう。「その分、毎朝中央道上りが大渋滞してるんだよ!」と。実際、平日はほぼ毎日、首都高永福入口付近を先頭に、12キロくらい渋滞している。中央環状線の全線開通によって都心部は空いたが、その分渋滞が郊外に移転したのだ。いつも永福か幡ヶ谷入口から首都高を利用している私は、恩恵を受けまくっているが、その割を食っているドライバーも多数いらっしゃる。申し訳ない限りである。

04渋滞は郊外へ、郊外へ……(写真/PIXTA)

だが、外環道東京区間が完成すれば、それもかなり緩和されるだろう。なにしろ外環道東京区間は片側3車線の大容量。吸い込みは劇的に良くなるはずだ。逆に外環道埼玉区間(片側2車線)の渋滞が大幅に悪化する可能性が高いが、その場合は外環道埼玉区間の路肩を潰し、各車線の幅を詰めるなどして、もう1車線ひねり出して対応していただきたい。東名・岡崎IC付近などで使われた暫定拡幅という手段である。私は高速道路研究家なので、先回りしてそこまで勝手に考えている。

05頼むよ外環自動車道!(写真/Adobe stock)

ところで外環道東京区間の完成はいつなのか。当初は2020年の東京オリンピックまでの完成が目標だったが、それはムリということなり、その後は目標も明示されていない。オリンピックという目標がなくなったので、ダラダラと延びる気配が濃厚だ。

進捗状況を見ると、シールドマシンはまだほんのちょっとしか掘り進んでいない。東名側から発進した「みどりんぐ」と「がるるん」(シールドマシンの愛称)が、世田谷通り地下あたりまで進んだだけ。大泉側からの「グリルド」と「カラッキィー」(同じく愛称)は、まだ発進したばかりでほとんど前進していない。つまり全16キロのうち、わずか2キロしか掘り進んでいないのだ。いまだ未買収地もかなり残っている。なんだかんだで、順調に進んでもあと6年くらいはかかるのではないだろうか。それを見るまでは死ねない。

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07外環道(大泉付近)の工事のようす(写真/NEXCO中日本)

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