東ドイツのアウトバーンに小田厚・二宮ICを想う
これまで3回にわたって、首都高の魅力を切々と訴えてきた首都高研究家の私だが、首都高だけでなく、高速道路全般の専門家もやっていて、日本だけでなく、海外18か国の高速道路を、自らの運転で走ったこともある。
せっかくなので国名を挙げてみると、ドイツ、旧東ドイツ、ベルギー、オランダ、フランス、イギリス、スペイン、スイス、オーストリア、イタリア、クロアチア、スロベニア、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、アメリカ、メキシコ、韓国となる。
この中で最もユニークだと感じたのは、旧東ドイツだ。ベルリンの壁が崩壊し、旧東ドイツが西ドイツと統合される寸前の1990年春、東西ドイツ一周のドライブ取材に行くことができた。
記事初出:『建設の匠』2019年1月23日
アウトバーンと言えば、世界で唯一、速度無制限区間を持つ(総延長の半分強。その他は制限速度アリ)、世界中のクルマ好きにとって憧れの高速道路。第二次大戦前にヒトラーが建設を始めたので、当然東ドイツ側にもあったわけだが、東ドイツに入ると、設計がものすごく古めかしくなった。
アウトバーンは元来の地形や風景を壊さないよう配慮されている(2009年頃、著者撮影)。
具体的には、まずインターチェンジの合流・分流部が非常に短かった。小田原厚木道路の二宮インターのような感じだ。つまり小田原厚木道路の設計が、超時代遅れなわけですが。
また、上下車線の間の中央分離帯側にはガードレールがなく、唐突に植樹帯が広がっている区間も多かった。ガードレールなしで、奥に立木が生えているので、そこにクルマが突っ込むと、大きなダメージを受けてしまう。古い写真を見ると、もともとのアウトバーンにはガードレールは一切ないので、その名残だったらしい。
ヒトラーに抜擢され、アウトバーン建設を指揮したフリッツ・トート建設総監は、風景と調和した美しい建造物を目指した。造園家も積極的に参加させ、周囲の景色に溶け込む、庭園のような高速道路を造ったのである。旧東ドイツのアウトバーンには、そのオリジナルの形が色濃く残っていた。
ただ、当時の東ドイツの国産車は、ボール紙繊維などを樹脂で固めたボディを持つ「トラバント」に代表される低性能車ばかりで、そこに西側からどっと高性能車が流入を初めていたので、あまりの性能差により事故が頻発。中央分離帯部の林に突っ込むクルマも続出していた。
トラバントは34年ものあいだ、モデルチェンジされずに生産された旧東ドイツの国民車だ。
トラバントのようなペナペナなクルマが、高速で立木にぶつかったらどうなるか、考えただけで恐ろしい。まぁ「高速」と言っても、80km/h巡行が限度だったようだが。
この時の取材では、工場内で生産されたばかりのトラバントに試乗することができたが、すでにエンジン等がフォルクスワーゲン製になっていて、加速はそれほど悪くなかった。ハンドルやシフトなどの操作系および、ボディ、足回りなどは超頼りなかったが……。
あれ以来、旧東ドイツ側のアウトバーンを走ったことはないが、現在は当然、西側基準で造り直されているだろう。我ながら貴重な経験をしたものだ。
中国の高速道路を走れる日本人はほとんどいない!?
加えて中国、ウズベキスタン、そして北朝鮮の高速道路も、運転手さんの運転で走った経験がある。この三国は、国際免許が通用しない。
中国には、すでに総延長約14万kmという高速道路網が完成している(日本はようやく1万km程度)。しかし外国人が運転するためには、中国現地で免許を取らなければならないので、非常にハードルが高い。運転の荒っぽさもあって、自らハンドルを握ろうとする駐在員はあまりいないようだ。日本の大企業は、自動車メーカーですら、現地での運転を禁止している。
中国・上海の交通渋滞(写真/PIXTA)
北朝鮮となると、いうまでもなく外国人の運転は不可能だ。しかしその北朝鮮にも、高速道路はある。いや、あった。現在は詳細不明。
私が北朝鮮に行ったのは1995年。アントニオ猪木が中心になって開催された、北朝鮮の国家的スポーツイベントに合わせてのツアー旅行だった。
北朝鮮では、あまりにも異次元の体験続きで、すべてがあまりにもインパクト絶大すぎて、かなり記憶が飛んでしまっているが、とにかく私は、朝鮮総連からプレゼントされたらしき日本製の観光バスに乗って、平壌から板門店まで往復した。その際開城まで、確かに北朝鮮の高速道路を走った。
北朝鮮の高速道路(平壌~開城)。見事に何もない。(写真/photolibrary)
高速道路の形態は、たまに農民が路肩を歩いているくらいで、特に変わったところはなかった。ウズベキスタンでは牛が路肩を歩いていたから、特筆することではないだろう。
一番すごかったのは、沿道の住民たちの視線だった。我々の観光バスが視界に入ると、農作業をしている人たちがいっせいにこちらを注視し、視界から消えるまで、まったく目をそらさなかった。全員がである。
私は思った。「ものすごく珍しいんだろうな」と。高速道路の交通量は皆無に等しく、道中数台にしか出会わなかった。当時の北朝鮮は、深刻なエネルギー不足と飢餓に喘いでいたのだ。
日本人の中を走り抜けてく真っ黒な○○○
そんな北朝鮮の高速道路にも、なんとパーキングエリアが存在した! 我々はそこで休憩を取った!!
それは、ヨーロッパのパーキングエリアに比較的多い、本線を繋ぐ上下線共用の門型施設が建てられているタイプだった。北朝鮮の高速道路が、ヨーロッパ(東ドイツ?)を手本に造られたことを示唆していた。
驚くべきことに、パーキングエリア内のレストハウスは営業していた! 恐らく、我々のために臨時営業したのだろう。ツアー中、行く先々であらゆる偽装工作(たぶん)が行われていたので。平壌市内の路面電車は24時間走り続け、一晩中ずっと同じ乗客が吊革につかまっていたくらいだ。
しかし我々日本人ツアー一行は、ふだん渋滞に苦しめられているせいか、なによりもクルマがまったく走ってこない高速道路に感動し、パーキングエリアから本線上に歩いて出て、しゃがんだり寝っ転がったりして楽しんでいた。
ところが、そこにクルマが現れたのだ! それは黒塗りのメルセデス・ベンツだった!
黒塗りのベ○ツが怖いのは万国共通なのかもしれない(写真/PIXTA)。
ベンツは遠くから激しくホーンを鳴らしながら接近してきた! 我々は蜘蛛の子を散らすように退散し、爆走するベンツの後ろ姿を笑顔で見送った。
まあ、それだけいろんな高速道路を走ってみても、やっぱり首都高は超ユニークな存在ってことです。