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首都高研究家・清水草一コラム【02】首都高が世界遺産に選ばれるべき理由

首都高は世界初の都市高速道路である

前回は、首都高という存在の素晴らしさについて、ほんのさわりを書かせていただいた。また、以前からの私の主張である「首都高を世界遺産に登録申請すべきだ」という論も、とりあえず提示した。

「首都高を世界遺産に」と聞いても、現状はギャグとして受け取られる可能性が高いだろう。首都高側にもまったくその気はない。

以前私が、首都高の委員をしていた時のこと。委員会の席で、「首都高を世界遺産にするくらいの意気込みと誇りを持ってもらいたい」と述べたところ、列席の皆様から失笑が漏れた。文字通り「一笑に付された」という印象であった。首都高自身が、自分の価値に気付いていないのだ。

が、私は本気だし、実際に登録される可能性はあると考えている。

記事初出:『建設の匠』2018年11月21日
トップ写真/PIXTA

 

まず世界遺産の定義だが、

「人類が共有すべき顕著な普遍的価値を持つ物件(不動産)」

が対象となっている。ほらほら、もう可能性がありそうな気がしてきたでしょう。

なにしろ首都高は世界初の都市高速道路だ。首都高が一番目で、その後阪神高速や名古屋高速など日本の6都市で建設され、現在はバンコクや上海にも存在する。

都市高速とは、都市内の交通を補完する目的で造られた連続立体交差道路を指すが、こういう概念は欧米にはなく、日本人の発明だ。

なぜ都市高速が日本で発明されたかと言えば、街路(一般道)がメチャメチャ貧しかったからだ。なぜ日本の大都市の街路がかくも貧しいかというと……長くなるので割愛するが、街路がまったくどうにもならないので、それを補うため、都心部にムリヤリ造ったのだ。実にユニークかつ創造的である。

欧米にはこういう例はない。欧米の大都市では、高速道路は外側をぐるっと囲んでいて、それより内側にはなるべくクルマを入れないという考え方が通例だが、首都高はあくまで、都市内の道路交通をなんとかするためのウルトラCとして造られた。

なにしろ首都高の最初の路線が開通(京橋-芝浦間 1962年)したときには、まだ東名も名神もできていなかったのだから、外からの交通を逃がすもなにもない段階だった。つまり首都高は日本初の高速道路でもある。

01首都高開通前のPR広告。(写真/首都高速道路株式会社)

世界の世界遺産が選ばれた理由

ところで、日本で世界遺産というと、堂々たる歴史的建造物や壮大な自然がまず連想されるが、世界遺産には産業遺産も認められている。従来の基準だと世界遺産がヨーロッパにばかり偏ってしまうため、90年代半ば、基準をユルくして全世界に広げようということになり、産業遺産を積極的に認める方針になったのだ。

2015年に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」はまさに産業遺産。石見銀山(2007年)も富岡製糸場(2014年)も産業遺産だ。軍艦島が世界遺産なのだから、首都高が世界遺産になれない法はないのではないか?

軍艦島ではいまひとつピンとこないかもしれないで、もう少し近い例を挙げてみよう。

02アイアンブリッジ(イギリス)/世界初の鉄橋(写真/PIXTA)

正確には「アイアンブリッジ峡谷」という登録名で、イギリス産業革命発祥の地として、橋のかかる峡谷全体が指定されているが、その中心は世界初の鋳鉄製の橋である。

03ブダペスト地下鉄1号線(ハンガリー)/ヨーロッパ初の地下鉄、世界初の電化された地下鉄(写真/PIXTA)

正確には「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り」という登録名だが、そこにはこの地下鉄が含まれている。つまり、東洋初の地下鉄である銀座線も世界遺産になれる可能性はある。

04フォース橋(イギリス)(写真/PIXTA)

これは特に「世界初」の冠を持たないが、19世紀に建設された全長2530メートルの鋼鉄製の橋で、当時としては画期的だったということで登録された。

ちなみにフォース橋の登録の理由は、

「人類の創造的才能を表現する傑作」であり、

「人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例」

であるというものだが、首都高はまさにそれに該当する。私は首都高を走るたびに、これは人類の傑作だと感嘆し、江戸橋ジャンクションの景観は東京を代表するものだと感じている。ついでに言えば、レイボーブリッジからの景観は日本三景でもある(私見)。

実は世界遺産の登録基準は10項目あり、そのどれかに該当すればいいのだが、首都高の場合、前述の2つは当確だ。加えてもうひとつ、

「歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である」

というのにも該当するだろう。なにしろ首都高は、東京の戦後復興、そしてアジア初のオリンピック開催に向けての歴史上の重要な段階を物語る建築群そのものだから。

首都高が世界遺産に選ばれにくい理由

近年の流行からすると、世界遺産登録申請上のテクニックとしては、ひとつではなく多くの遺産群をまとめたほうがいいかもしれない。となると、

「東京における戦後復興遺産群」

という形で、64年の東京オリンピック開催時までに完成した首都高の最初期開通区間(羽田空港から代々木まで)と、東京タワー、丹下健三設計の国立代々木競技場などをひとまとめで申請すると通りやすいかもしれない。まるで福袋だが。

05最初期開通区間の一部、C1汐留付近の建設現場。(写真/首都高速道路株式会社)

ただ、問題点がひとつだけある。首都高は、世界遺産に登録申請するには、まだちょっと若すぎるのだ。

明治日本の産業革命遺産は、明治だから100年以上たっている。イギリスのアイアンブリッジの開通は1781年。ブダペスト地下鉄1号線は1896年。フォース橋が1890年。どれも100年超である。首都高はまだ56年だ。こんなに若い世界遺産は存在しない。

逆に言うと、問題点はそこだけではないだろうか。あと44年くらい待てばいいのだ。

つまり我々は、首都高の最も古い開通部分を、特に大事にしなければならない。最初期開通区間のうち、東品川や銀座、日本橋付近など、老朽化が特に激しい部分はすでに造り直しが決定しているが、なるべくオリジナルの形態を維持すべきだ。日本橋付近の地下化など、本当は論外なのである。

06建設当時のC1日本橋付近。(写真/首都高速道路株式会社)

2062年には、首都高誕生100周年を迎える。その頃には、自らが生んだ文化の価値に鈍感な日本人も、おそらく気づいていることだろう。

「やっぱ首都高ってすごいよね」「人類の傑作、日本の誇りだよね」と。

実を申しますと、その時私も100歳を迎えます。そう、私は首都高と同い年なのです。タハー。

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