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【戦後インフラ整備70年物語】黒部第四ダム建設時の知られざるエピソード

作成者: 編集部|2021年12月9日

2018年9月より、戦後の復興と高度経済成長を支えたインフラ整備に直接的・間接的に携わった技術者が、その意義や役割を社会に発信するために、建設コンサルタンツ協会が企画した連続講演会「インフラ整備70年講演会~戦後の代表的な100プロジェクト~」がはじまった。

記念すべき第1回テーマは、「社運を賭けて人跡未踏の秘境黒部に築造した水力発電ダム~黒部川第四発電所~」である。吉津洋一氏(元関西電力水力事業本部副事業本部長/現ニュージェック常務)、大田 弘氏(元熊谷組代表取締役社長/現社友)、小野俊雄氏(元安藤ハザマ代表取締役社長/現会長)の3人が、語り部として登壇。はたして、どんな内容だったのか?

記事初出:『建設の匠』2018年11月30日
取材協力/建設コンサルタンツ協会 インフラストラクチャー研究所
※所属・肩書は2018年9月時点のものです

 

太田垣関電社長の鶴の一声

まず登壇したのは、発注者である元関西電力の吉津氏。明治以前は人跡未踏の土地であった黒部の自然環境の厳しさを紹介。そして昭和の戦後復興期ゆえ、電力不足が深刻化しており、電力使用制限や輪番停電が日常茶飯事だったという時代背景を解説した。

黒部ダムの計画・設計・運用について語る吉津洋一氏(元関西電力水力事業本部副事業本部長)。

そんな中で、当時の太田垣士郎関西電力初代社長は、「経営者が10 割の自信を持って取りかかる事業など仕事のうちに入らない。7割成功の見通しがあったら勇断を持って実行する。それでなければ本当の事業はやれるものではない。全員一致団結のもと何がなんでも決めた日に決めた電力を送電せよ!」と大号令を下したのだという。

かくして5つの工区に分けられてはじまった工事は、それぞれに各分野のエキスパート企業が参画することになった。

工事は全5工区。各分野におけるトップランナーたちが結集した。

総工費はおよそ513 億円と、当時の関西電力の資本金の約5倍である。その約4分の1は世界銀行の融資を受けて、開発が進められた。

設計時、「日本人技術者だけでは設計は難しいだろう」と、世界銀行のあっせんもあって、イタリアのセメンツァ博士と技術提携した。セメンツァ博士はエレクトロ・コンサルタント社をつくって骨組み設計、大型模型実験などを担当し、関西電力はダム基礎地質調査等のフィールドワーク、小型模型実験などを担当。やがてダムの設計が進み、地形・地質が分かるにつれて、堤高186mを誇る日本最大のドーム型アーチダムの姿が浮かび上がってきた。

「ダムの堤高を下げよ」世界銀行からの勧告

1959年9月にコンクリート打設を開始した。しかしその3か月後、同じく世界銀行から融資を受けていた南仏の水道・灌漑用ダム・マルパッセダムが決壊する。多数の犠牲者を出した事故の影響もあって、世界銀行顧問団は黒部第四ダムの現場を視察、地質状況を不安視し「ダムの堤高を186mから150mに変更せよ」と勧告してきたのだ。それはすなわち、計画水位や発電量の低下を意味する。

対策案を持って、ワシントンD.C.にある世界銀行本店へ乗り込んだ平井寛一郎関電副社長は、「計画水位を低くしては発電所の採算が悪くなり、借入金返済が困難になる。ここにおられる世界を代表するダムの権威者から、いかにすれば黒部ダムの高さを下げずに済むかについて、お知恵を賜りたい」と直談判した。

これを受けたユージン・ブラック世銀総裁は「両アバットメントの裏にある数個の断層は、アーチアクションを支えることはできない。これを認識して世銀顧問団の設計変更に同意するならば、高さ186mを認めよう」と返答。おかげでなんとか日本一の高さを死守することができたという。

また吉津氏は大規模岩盤実験のさまざまな課題や苦労を挙げ、「“くろよん”は世界最初の大規模岩盤実験で、その後の岩盤実験の進展に与えた影響は非常に大きなものだったと聞いています」と、先人の労苦に思いを馳せながら語った。

破砕帯突破の最前線で交わされた会話

「“くろよん”最大の難工事」と言われる大町トンネル(現・関電トンネル)について語ったのは、“くろよん”が完成した時、黒部近くの山村の小学5年生だったという熊谷組の大田氏だ。村唯一の小学校のテレビで、「黒部ダム完成の様子が映し出されたのをみんなで観た」こと、作文に「大きくなったら安全にダムをつくる土木技術者になりたい」と書いたことを懐かしげに語っていた。

元熊谷組代表取締役社長の大田 弘氏は”くろよん”に対する熱烈な愛を語った。

黒部第四ダム建設にあたり、秘境ともいうべき黒部峡谷に大量の資機材を移動する必要があった。3000m超の冬の立山をブルドーザーで越える手段まで取られたが、それでも間に合わないため、長野県大町市側からアプローチすることになった。

1957年にはじまったトンネル掘削は、当初の4か月は一月あたり300mと、トンネル掘削日本記録を塗りかえるほどのスピードで行われていたという。しかし4月になって澄んでいた湧水が濁りはじめ、あちこちで地盤崩壊が発生。全断面掘削を断念し、手掘り工法を余儀なくされる。

そして5月には、盤ぶくれ現象(掘ったトンネルが内側に向かって縮んでくる状態)が起こり、不気味な山鳴りののち、切羽(トンネル掘削の最先端)は崩壊し、大量の水が吹き出た。トンネル内部はまるで川のようになり、作業員や資機材は坑口に向かって数百メートル流された。この破砕帯(岩盤内で岩が細かく割れ、さらに地下水を溜め込んだ弱い地層)の突破こそが、“くろよん”工事最大の課題となった。

現在の関電トンネル。本日11月30日にその役目を終えた関電トンネルトロリーバスが通る。(写真/写真AC)

この工事の班長は笹島信義氏。国内外で1500 本以上のトンネルを、熊谷組とともに掘り抜いたという猛者だ。その笹島氏をもってしても、「掘削しているというよりも冷水を単に掻いている感じだった」と言わしめるほど困難な作業だったとか。

8月になっても事態は好転する気配すらなく、「黒部は危険な現場」というマスコミ報道により現場の士気はいちじるしく低下し、「チチキトク スグカエレ」などの電報が連日届き、山を降りる仲間が増えていった。

そんな折、太田垣関電社長が現地視察を行う。64歳の発注主は水抜きトンネルの最先端の切羽に到達して、案内役の笹島氏に「いやあ、これは大変な工事だね。どうかね、掘れそうかね?」と尋ねた。笹島氏は「なんとかなるでしょう!」と即答。この時、太田垣社長の目には笹島氏が非常に自信にあふれたように映った……そうだが、大田氏は微笑みながら真相をこう明かす。

「非常に危険で、何かあればすぐに退避しなければいけない現場から、日本を代表する偉い人にとにかく早く帰ってもらわなければ、と『いわばやけくそで答えた』のがどうやら実情のようです(笑)」

しかし、この視察後に太田垣社長から届いた1枚の激励はがきに笹島氏は感動し、そのおかげで現場の心はひとつになった。

太田垣士郎関電社長から笹島班長への手紙の文面。これが大町トンネル開通の原動力となった。

そして翌年2月、無事にトンネルは貫通したのである。

工期を守るために積み重ねた創意工夫

最後に登壇した小野氏は、工程を中心に解説。それまでにつくったダムの工程より短納期で、大町トンネルの開通も遅れたにも関わらず、一次湛水も発電の開始時期も変えない中で、いかに工期を守るための工夫を行ったかを話した。

トリを飾るは元安藤ハザマ代表取締役社長の小野俊雄氏。

たとえばブルドーザーは立山越えの際は、自走はもちろん、自走できないものはそりに積み込んで、そりを引っ張りながら山を越えたという。またそれら建設機械の燃料は、工事が進むにつれて足らなくなった。そこで25キロのビニールパイプラインを引き、1日当たり4000リットルの油を輸送したのだと、その苦労を語った。

また当初計画では70 万㎥掘削だったものが、現地で測量したら1.5倍近い110万㎥だったという。そこでベンチカット、坑道式発破、放射孔発破を併用して工期を詰めた。

7年という異例の短工期を死守するために、さまざまな創意工夫に取り組まれたかが語られた。

さらに堀削作業には、当時の日本には存在しなかった大型建機を、関電の支給によって新たに輸入し、使用したそうだ。

「関西電力グループのDNAとして、困難を乗り越える“くろよんスピリッツ”が根付いています」と吉津氏は語る。そしてくろよんを経験した関西電力社員が設営したニュージェックが東南アジアで携わっている“第二のくろよん”というべき超巨大ダムに触れ、「“くろよん”の経験を次世代に引き継ぐことができたのが一番の喜びです」と語った。

大田氏も郷里に帰った時、笹島氏に雇われていたという女性から「作業員たちがあれだけの大変な工事を踏ん張った元気の源は、私の炊いたご飯。だから“くろよん”は、私がつくったようなもんだよ」という言葉に感動して涙したという。

「あれから半世紀も経ったのに、炊事に関わった人でも誇りに思う土木工事でした。志というものは連鎖し、情熱は必ず感染して、不可能を可能にしていく。みんなで力を合わせるという基本動作の大切さを“くろよん”は今も教えてくれているのではないでしょうか」と熱を込めて語った。

締めくくりに、小野氏もこう説いた。

「なぜこんな大きな仕事ができたのか、いま考えるとやはり太田垣社長の決断は非常に大きいものでした。そして、その本気度が各工区の各社の作業員にまで伝わった。これまでもこれからも匹敵する規模のプロジェクトはあるでしょうけれど、土木技術者は“くろよん”ほどに本気度を持って向き合っているのかどうか、考えていかなければいけないと思っています」

171名の尊い犠牲を出して創り出された“くろよん”。現地には彼らの冥福を祈る慰霊碑が建てられている。(写真/写真AC)

戦後の代表的なインフラのリアルな建設ヒストリーを語り継いでいくこの「インフラ整備70年講演会 」は、月に1回程度のペースで、100回を目標に開催されていくという。ぜひ土木系ではない建設パーソンや一般の建設ファンにも、一度講演の参加をおすすめしたい。ものづくりに携わる者なら、きっと胸に響くものがあるはずだ。