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Y田Y子の「人はなぜ日本武道館をめざすのか」【2】日本武道館と半世紀~設計者の孫の気づき

大好評の日本武道館連載、第2回です!(編集部)

記事初出:『建設の匠』2019年5月31日

【2】日本武道館と半世紀~設計者の孫の気づき

今回の執筆後記~日本武道館の50年を振り返って

みなさまこんにちは。漫画エッセイストのY田Y子です。
漫画エッセイ『人はなぜ日本武道館をめざすのか』。第2回目は私の極めて個人的な立場から、日本武道館の半世紀を振り返ってみました。

私は武道に関わった経験がなく、一般催事の印象がメインになりましたが、今回一番描きたかったのは、この半世紀、世の価値観や流行はまるで川面の水泡のごとく移ろっていったのに、日本武道館は喧騒の大東京のいち建物にして、悠久の時をはらむ江戸城跡の風景に、屋根の緑を深めながら自然に溶け込んでいった――ということでした。

竣工当初、屋根がとても茶色かった事実は、当時の写真は白黒が多かったためかあまり後世に伝わっていませんでした。この事実を描くにあたり尋ねてみた年配の方々も、色に関する記憶はあいまいなことが多く、私は子どものころの記憶――武道館は今より『お寺』の印象を人々に与えていた」と感じていたこと、まだ木々も少なく砂塵が舞って、砂まみれになった記憶があったこと――などをたどって、確かにアレは今とは違った!との確証を得るべく、茶色く映ったカラー写真を探しました。

茶色の屋根の話は、私が運営している山田守の伝記漫画『50年目の大きな玉ねぎ』の方にもすでに描いていて、多くの反響をいただきましたが、まだまだ一般の方々に広く知れ渡っているというわけではないようです。

この祖父の屋根に対する考え方は、日本武道館という存在が、オリンピックのための一過性のものではなく、悠久の日本の歴史に自らを刻み、存在しつづける、という日本の武道を守った方々の遺志とも呼応しているものと思います。

先人・故人が未来に託した遺産(レガシー)のボールを半世紀後にキャッチした世代の使命として、何度も発信するとともに、ここで読んで知った方々にも広く伝えていただきながら、2度目の東京オリンピックが来るこの機会に先人が願った「ずっと永遠(とわ)にありつづけるのだ」という想いを、また次の世代へつなげていけたら――。そう願っています。

 

第2回記事の用語解説

今回はいろいろなトピックスを盛り込んだので以下、ざっくりとした解説です。

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【ケロヨン】

「ケロヨーン バハハーイ!」のセリフで大流行した、元気なカエルの着ぐるみキャラクター。日テレ系で放映された、影絵で有名な藤城清治先生プロデュースの番組由来。グッズは2ヶ月で30万個売り上げるほどの大人気で、あまりの人気を受け、日本武道館で1966年12月から4年間に渡りケロヨンショウが開催され、大ホールでの子どもショーの先駆けとなったそう。Y子は2歳の時に行ったので詳細を覚えていないのですが、なんとスポーツカーが着ぐるみとともに円形舞台で走って回る演出だったとか。当時の舞台セットの写真を見ると、中央に大きなケーキがあったり、ロケットがあったりと夢一杯の素敵な演出……子ども心に興奮した理由が分かります。

 

【山田守の自宅】

都内某所に現存しています。1階ピロティ部分は珈琲の美味しい喫茶店に改築され、現在も営業中です。家本体は居住者がいますので、ここで宣伝することは差し控えますが、ご興味ありましたらお調べになってみてくださいね。

 

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【武道館発のライブ盤】

日本武道館のライブを中心に録音され、世界的にヒットしたレコードは、ディーブ・パープルの『ライブ・イン・ジャパン』をはじめ、いろいろとあるようです。その中でも、はじめてレコードタイトルに『BUDOKAN』の名を冠し、本国の人気より日本人女性人気が先行して世界的にヒットし、逆輸入現象として騒がれたのがチープ・トリックというバンド。チープ・トリックのメンバーは『俺たちが武道館を有名にし、武道館が俺たちを有名にした』との名セリフを口にしたそうです。Y子も当時はまだ珍しかったレディースバンドを組み、演奏にチャレンジしましたが、練習が足りず悲惨なことになった黒歴史が……。ところで「武道館で演奏して欲しい名曲トップ20!」みたいなの、考えてみたら楽しそう。

 

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【ライブハウス日本武道館へようこそ】

当時飛ぶ鳥を落とす人気だったバンド「BOØWY」氷室京介の名セリフ。このへんになると実際ファンだった人から話を聞けるのでは? と探してみたら、なんとそのライブに行った、という知人がいて、大切に保管しておいたチケットまで見せてくれました。

当時のバンドは、新宿LOFTあたりの数百人収容のライブハウスからスタートし、どんどん集客数を上げ、渋谷公会堂などの大きな会場へ。ついに、日本武道館にたどり着いたこの日は、当初観客も緊張感のためか、いつもより空気が固かったそう。それをほぐしたのが氷室さんの「ライブハウス武道館へようこそ!」のセリフ。続けて「ここは東京だぜ?」。このセリフで一気に、みんなのノリがいつものように自然になっていったそうでした。カッコいい!

日本武道館が、築22年にして、等身大のパフォーマンス会場として身近になった、象徴的瞬間だったのかもしれません。半吉さん、貴重なお話をありがとうございました。

 

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【武道場としての座席】

実は日本武道館ではビートルズの前に、当時の人気指揮者・ストコフスキーにより、クラシックのコンサートが行われていました。祖父も当時はまだ存命で、本来の武道場とは違う使われ方ながら、「なかなか良いものだ」と感銘を受けていたと聞いています。

しかしながら、その後、ゆったりと聴くクラシックコンサートよりもロックが根付いたのは、この武道を観戦することを想定した、アドレナリン系に適した座席のためもあったのかな?と思うと、面白いなと思いました。(座席に関する考察は、山田守を精力的に研究してくださっている大宮司勝弘先生の論考を参考にさせていただきました)

 

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【武道館の屋根について】

銅製の屋根を、あのように美しく保つのは、いろいろな苦労や試行錯誤があるそうです。手間のかかるメンテナンスにもかかわらず、建物の意図が今日まで伝わり続けているのは、建物を守る方々の日々のご理解・ご尽力のおかげだということを忘れてはならないと思っています。関係者の方々がお赦しくださいましたら、ぜひそのご苦労を取材させていただき、次世代に少しでも伝えたい――と願っています。

このように描いてみて、日本武道館での出来事を誰かに語ってもらうことは、当時の社会現象の――大げさかもしれませんが、生き証人的要素があるものだな――と感じたりしています。日本武道館では、幅広い催しが行われていますし、年間200万人も来場者があるというのは、ざっくりした計算ですが日本人全員が一生に1~2回は訪れてもおかしくないことになるそう。気がむかれたら、みなさんの印象深い武道館体験・エピソードを教えていただけたら嬉しいです!(Y田Y子Twitterによろしくお願いいたします)。

今回は音楽の話が多くなりました。次回は、これも私がとても感銘を受けぜひ描いてみたい、日本武道館の屋根にこめられた『武道の心』について、熱く語ってみたいと思います! ではまた来月!

 

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