もう忘れかけていると思うけれど、30年続いた平成が終わりに近づいた頃、いろいろな業界で平成を振り返る記事が出回っていた。ではダム業界にとって平成はどんな時代だったのか。誰もやらなかったので、振り返っておきたい。
そこで、知り合いのダムの専門家とダム好きに平成時代の印象的な出来事を聞いてまわり、最終的に僕の独断と偏見で「平成ダム界10大ニュース」をまとめてみた。あくまでも「10大」なので特にランキングはしていない。また、専門家だけでなく一般ファンの目線も入っているのと、まとめたのがダム好きなので、専門家の方々の印象とは違うかも知れないし、逆にライトなダム好きからするとピンと来ないところもあるかも知れない。そのへんはご了承ください。
記事初出:『建設の匠』2019年4月10日
とりあえず平成で最初に竣工したダムはどこだろう、といろいろ調べたけれど時間不足で特定まではできなかった。大きいところで言うと、青森県の浅瀬石川ダムが昭和63年、北海道札幌市の定山渓ダムが平成元年に竣工している。そして群馬県の奈良俣ダムが平成2年竣工。
昭和の末に完成した浅瀬石川ダム
平成で最初に完成した巨大ダム、定山渓ダム
このあたりのダムを見ると、何というか高度経済成長期の無骨な堤体(それはそれでかっこいい)などと比べて、各所に見た目を意識したデザインが取り入れられ、新しい時代の幕開けを感じられると思う。しかし今から振り返ると、デザインの進化に関してはまだ入口だった。
高度経済成長期のダムの例。昭和42年完成の金山ダム(北海道)
10大とか言っておきながら、のっけから見出しに3つも項目を入れてしまった。この記事終わるのだろうか。とりあえずダムの型式や工法など、建設にまつわる平成トピックスだと思ってください。
平成2年、秋田県の雄物川水系玉川に完成した玉川ダムは、堤高100m級の巨大ダムとしては初めて「RCD工法」で建設された。RCD工法とは、日本で開発されたコンクリートダム建設における工法のひとつで、セメントの量を減らした超硬練りのコンクリートをブルドーザーで敷き均し、振動ローラーで締め固める方法。それまでの柱状工法やブロック工法などと比較して、工期の短縮やコスト削減などに優れている、と言われている。もちろん、実際に工事を監督したことがないので実感はない。
RCD工法で建設された初の100m級ダム、玉川ダム
昭和56年に竣工した島地川ダムで世界で初めて採用されたRCD工法は、それまでとは規模の違う玉川ダムの建設が無事に終了したことで、超巨大ダムでも対応できる技術として確立。その証として玉川ダムの天端から見下ろすと、眼下に巨大な「RCD」と形取られた植え込みが見える。そして宮ヶ瀬ダムなど、その後の巨大重力式コンクリートダムの大部分でRCD工法が採用された。ちなみに平成末期には、効率や速度をさらに進化させた「巡航RCD工法」が開発され、八ッ場ダムなど最新のダムで採用されている。
玉川ダム天端から見える「RCD」の植え込み
巡航RCD工法で建設が進められている八ッ場ダム
また、平成24年に北海道に完成した当別ダム、翌年に沖縄に完成した金武ダムは、日本生まれの新型式である「台形CSGダム」で建設された。
CSGとは「Cemented Sand and Gravel」の略で、砂礫に水とセメントを加えたもの。コンクリートと似ているけれど、ダム用コンクリートは骨材の品質や大きさを厳密に揃える必要があるけれど、CSGは川床や原石山から出てきた砂礫をほぼそのまま使用することで選定の手間を省き、コストを抑えている。堤体の形はロックフィルダムのように上流面下流面ともになだらかな斜面で、コンクリートダムとフィルダムのハイブリッドのような型式。つまり「コンクリートダム」、「フィルダム」の2極以外の型式が生まれたということで、ダム技術業界ではかなりの大ニュースなのではないかと思う。
まったく新しい型式が生まれたいっぽう、平成21年に熊本県の川辺川ダム計画が中止された結果、平成13年に相次いで完成した温井ダム、奥三面ダムをもって、日本のダム建設計画からアーチ式コンクリートダムが姿を消した。昭和28年に島根県に三成ダムが造られて以降、全国におよそ50基建設されたアーチダムは、とりあえず新規に計画されない限り、今後国内で造られることはない。
日本のアーチダム建設技術のすべてが投入された最後のアーチアムのひとつ、温井ダム
ちなみに現在もっともアーチダム建設が盛んなのは恐らく中国で、大きいものでは堤高300mに迫るような堤体が次々に造られ、世界の巨大ダムの勢力図をものすごい勢いで塗り替えている。
基本的にダムは機能がすべてであり、特に高度経済成長期以降、建設にあたっては経済性や安全性、速度が重視された結果、「見た目」は建設地点の条件によって生まれる型式や放流設備の違いがある程度で、ほぼ画一化していた……昭和までは。
しかし平成3年、ダムにも新時代の到来が予告される。建設省(現・国土交通省)が監修し、(財)国土開発技術研究センター(現・国土技術研究センター)が「ダムの景観設計」を発行したのだ。これは、土木構造物を「日常の生活や余暇活動において地域の景観を形成する重要な要素」と位置づけ、これまであまり顧みられなかった、ダムの堤体や周辺の景観について「見られる」ことを意識しはじめるターニングポイントになったと言える。
数年後、この影響を受けたと思われるダムが登場しはじめた。平成9年、京都府に日吉ダムが、平成10年、高知県の中筋川ダムや福島県の三春ダム、埼玉県の浦山ダムなどが、機能的に必ずしも必要ではない構造や装飾を堤体にまとって登場したのだ。
こんなに複雑なゲートピアのデザイン見たことない、日吉ダム
こんなに複雑な下流面のデザイン見たことない、中筋川ダム
しかし、それまでやって来なかった「見られる」ことを意識した初期は試行錯誤が続き、デザイン的に賛否両論を巻き起こしたダムが各地に次々と誕生した。例えば、三春ダムや翌年完成した四万川ダムは石垣や擬岩を模したコンクリートで仕上げられ、平成13年に山形県に完成した月山ダムは巨大な半円の模様が刻まれ、浦山ダムや平成14年に奈良県に完成(事業完了は平成24年)した大滝ダムは堤体上部にアーチ橋のような模様が描かれ、平成16年に岐阜県に完成した小里川ダムは堤体に太い円柱が埋め込まれるなど、堤体下流面を印象的に装飾するダムが出現した。
果たしてダムに石垣模様や武家屋敷風屋根は似合うのか、という謎を突きつけた福島県の三春ダム
堤体に巨大な半円を刻み業界をあっと言わせた月山ダム
堤体に太い円柱を埋め込み業界をあっと言わせた小里川ダム
その後、平成16年に岡山県に完成した苫田ダム、北海道に平成18年完成の忠別ダム、山形県に平成23年完成の長井ダムなどのように、特に目を引くような装飾はなくとも全体のバランスを整え、コンクリートのフラット感やエッジ感を強調した、シンプルかつモダンな雰囲気を持つダムが増えてきた。そして平成28年に完成した津軽ダムは、直線と曲線が織り混ざり、コンクリートの硬軟が融合した「デザイナーズダム」としてひとつの到達点に達したのではないかと思う。
そういえばダムはコンクリート打ち放しの建物だったと気づかせてくれた苫田ダム
シンプルかつクールなデザインの長井ダム
津軽ダムは令和のダムデザインの基準となるか
国内での新規ダム建設は残り少ないが、今後造られるダムも目を見張る美しい姿であることを願いたい。ただ、個人的には新時代のダムも、それ以前の無骨なダムもどちらも同じように魅力的である。
新時代においてダムは目的を果たすだけでなく、地域の活性化の拠点となり、地元により密着した施設となるよう、平成4年に建設省(現・国土交通省)によって「地域に開かれたダム」制度が制定された。
この制度のポイントは、まず「地元地域が指定の申請を出す」ところだと思う。いくらダム側が施設を整えても地元に関心がなければ地域振興は長続きしないが、地元が要望して、指定を受けたら整備計画を策定、ダム管理者などと協力して振興を盛り上げていく、という流れになっている。
これで地元地域、ダム管理者の両方が「ダムを使って地域振興をする」という方向性を共有できるため、最初に造られて以降整備されず、うら寂しい雰囲気の公園や資料館だけが残る、というようなこともない(はずだ)し、整備されるのはハードだけでなくイベントや人材といったソフト面もある(に違いない)。
ものすごく地域に開かれている熊本県の竜門ダム
地元が主体ということは、地域に開かれたダム指定されたからと言って、すべてのダムが堤体内を解放したり資料館を造るわけではないし、逆に指定されていないけれど見学設備が充実している、というダムもあるのだ。重要なのは「ダムを地域振興の拠点として活用する」という意識が全国的に広がったことだと思う。それによって、後のダムがより解放的になっていったのは間違いない。
近年、ダム建設は「ムダな公共事業や自然破壊の象徴」のように報道され、長い間逆風にさらされ続けてきた。なかでも平成12年に与党三党から出された「公共事業の抜本的見直しに関する三党合意」を受け、長期化しているダム計画の見直しが行われた。また、翌年には当時の長野県知事より「脱ダム宣言」が出され、いよいよもってダムは悪役として世論の集中砲火を浴びることになる。
これにより、当時建設が計画されていたダムのうちかなりの割合が中止に追い込まれ、幻のダムが大量に発生した。中には、用地買収も水没者の移転も完了し、本体建設を残すのみのダムなども存在した。
用地買収などが済み、本体工事を残すのみで中止となった戸倉ダム予定地(群馬県)
こうしたダムに対する逆風の勢いに乗じてか、熊本県の球磨川に設置されていた発電用の荒瀬ダムが老朽化と地元からの強い要望により撤去が決定。国内では初となるコンクリートダムの撤去が行われた。
在りし日の荒瀬ダム。現在撤去工事は完全に終了した
公共事業の見直しがひと段落した現在、ダムの役割や意義は徐々に見直されてきている。しかし相変わらず毎年のように洪水や渇水の被害は続発。中止された事業すべてが必要だったかどうかは分からないけれど、あの強烈なアゲインストは冷静な判断に基づいたものというより一過性のブームだったように思う。また、その後の震災の影響で全国の原発がストップし自然エネルギーが再度脚光を浴びるなか、粛々と撤去される荒瀬ダムの姿はなんとも言えない哀愁を感じた。
平成10年前後あたり、ちょうどインターネットの普及と同時期に、いわゆる「ダムマニア」と呼ばれる人々の活動が目につくようになる。もちろんそれ以前から同様の活動を行なっていた人は存在したかも知れないけれど、インターネットによって手軽に個人が情報発信できるようになり、ダムの魅力や役割などを解説したホームページが次々に発生した。
ダムマニアの最初期から活動している身として自分の経験をもとに想像すると、ダムマニアの出現はインターネットの普及だけではなく、上の「ダムのデザインの進化」、「地域に開かれたダムの制定」、そしてその流れから見学しやすいダムが多数誕生したことと時系列的にも無関係ではないと思う。インターネットにも、テレビや雑誌などにもダムの情報がほとんどない中で、ダムの周辺が整備されたことでダムに立ち寄る人が増加し、その中の一部がダムの魅力に取り憑かれて情報発信をしはじめ、それがまた新たなダムマニアを生み…、というようなサイクルが発生したのだと思われる。
その後ダムファンが増える中で、それまでまったく存在しなかったダムの本やグッズなどが製作され、ダムファンによるイベントが行われ、テレビや雑誌に紹介されるなどしてファン層はさらに拡大。ダム鑑賞は、この20年でひとつの趣味ジャンルとして一般にもかなり認知されたと思う。
「史上初のダム写真集」を作らせてもらったことは今でも心の支えになっています
ダムの基礎知識が広まったことで、洪水や渇水の被害が発生した際の勢いに任せたバッシングがファンによって否定されたり、現在ではかなり冷静なダムの運用を論じる声も聞こえてくるようになった。
また、それまでほとんど表に出ることのなかった、ダムの活躍をダムファンが取り上げて讃える「日本ダムアワード」といったイベントまで開催されるようになった。
ダムアワードもいまやダム業界全体が注目するイベントとなった(写真提供・日本ダムアワード選考委員会)
平成時代は、ダムにとって強烈な逆風から少しずつ順風に風向きが変わっていった歴史的な時間だったと思う。その要因は、先人たちが蒔いた景観設計や地域に開かれたダムといった種が芽吹き、それを見つけた一般のファンが情報を拡散し、情熱を持った専門家が花を咲かせ、結果的に多くの人がダムに関心を持ったことが大きいと思う。
ダムの魅力に取り憑かれた人がちらほら出始めた頃、ダムのまとまった情報はまだ手に入りづらかった。名前、型式、スペック、位置情報などの一覧は(財)日本ダム協会が発行している「ダム年鑑」くらいでしか知ることができなかった。
しかし2万円と高額ということもあって簡単には手が出ず、ダムの情報を知るには専ら「地図で見つけて現地に観に行く」という方法がもっとも手っ取り早く確実だった。
しかし平成14年、ダム年鑑に収録されている情報の中から、ダム名、型式やスペックといった、一般のダムファンが必要な情報のみに特化してWeb上にデータベースとして移植した「ダム便覧」がスタート。これによって「ダム年鑑」を購入したり図書館で閲覧することなく、誰もがいつでも無料で日本中のダム情報にアクセスすることができるようになり、ダムのファン層拡大に大きな影響を及ぼした。
また、そんなダム便覧のデータベースを使用して、GoogleMap上にダムの位置情報を表示した「DamMaps」が一般のダムファンの手によって平成17年に公開された。その使い勝手の良さでダムめぐりが目的の人はもとより、プロも使うようになったという。
ダムファン層の拡大に大きな役割を果たした「ダム便覧」と「DamMaps」は、いまではダムを知るための手がかりとして、完全になくてはならないものになっている。
ダム鑑賞趣味が徐々に一般に広がっていく中で、平成19年にダムカードが登場。これが着火剤となり、一部のマニアだけではなく、ファミリーやツーリングのライダー、カードコレクターなど、ダムを訪れる人は爆発的に増加した。
ダムカードは、表に堤体の名前と写真、型式や目的など、裏面に細かいスペックや特徴などが記載されたトレーディングカード型のパンフレットで、無料で配布されている。基本的に全国でフォーマットが統一されているので、収集欲が掻き立てられるのだ。
ダムをお茶の間に広める決定打となったダムカード
ダムカード誕生のきっかけは、とあるダムマニア(というのは僕ですが)がトークライブで、ダムに行っても記念となるようなものがない、パンフレットはA4版が多く嵩張るうえ、ダムによってフォーマットがバラバラで集めたい欲がない、ダムについて疑問質問が湧いても管理事務所の敷居が高く質問できない、もっと多くの人にダムに来てほしい、などといった不満を解決するために「全国でフォーマットが統一されたカードを作り、ダムで職員さんが手渡し」すればすべて解決するのでは、と話したこと。
トークライブ終了後、客席にいた本職のダム職員さんから「詳しい話を聞きたい」と言われ、それがめぐりめぐって国土交通省のダム担当者の耳に入り、その数ヶ月後に「ダムカード」として全国の国土交通省、水資源機構の111ヶ所のダムで配布が始まった。
配布されるまでに、デザインや表記内容などについて国交省の担当者とダムファンとの間で何度かやり取りしたため、マニアから見ても文句のない内容のカードとなっていると思う。
ダムカードの効果か、ダムを訪れる人が増加したこともあって、自治体や電力会社なども続々とダムカード配布に参入。平成末期には全国700基近いダムで配布されている。また、ダムカードの人気にあやかって、さまざまなインフラ施設が同様のカードを作製するようになった。
しかし、ダムカードはさらに上を行く。平成31年に天皇陛下御在位30年を記念して行われるさまざまな催しの中で、国土交通省はなんと「記念ダムカード」を発行したのだ。ちょっと何言ってるか分からないと思うが、安心してほしい。僕も同じだ。とにかく、造幣局が記念貨幣を発行するように、国土交通省は記念ダムカードを発行したのだ。何というか、ダム好きとして非常に誇らしい。ぜひ陛下(現在は上皇)にコンプリートセットを献上してほしい。
もうひとつ、ライスを堤体、ルーをダム湖に見立てた「ダムカレー」もダムのファン層拡大に大きな役割を果たしたひとつだ。
ダムカレーは、主にダム近隣のレストランなどで提供されている、ダム名を冠にしたカレーや、ライスを堤体に見立てたカレー、さらに堤体型のライスが丼などに密着し、貯水ならぬ「貯ルー」しているカレーなど、多彩なバリエーションが存在している。
こんなのぼりが街角に立つほど一般化してきたダムカレー
平成21年頃から各地で火がつきはじめ、地元の食材を使った副菜が添えられるなど、各店舗の腕の見せどころもある。最近はダムに行ったらダムカードをゲットしてダムカレーを食べてくる、というルーティーンもできあがり、ダムの地元では大いに盛り上がっているようだ。
平成31年4月末現在、全国で建設が行われているダムはおよそ20ヶ所。計画中のダムも何ヶ所かあるけれど、新規のダム建設工事はもう終盤といっていい状態である。しかし完成し、運用しているダムはそのままで良いかと言えばそうでもない。
たとえば、ダムには上流から水と一緒に絶えず土砂が流れ込んでくる。土石流で流れてくるような巨大な岩石だけでなく、濁った水に溶け込んでいる細かい粒子のようなもの(シルトという)でも、流れ込み続ければ徐々にダム湖に堆積してくる。
ダムは建設時に、堆砂容量と言って100年間で堆積する土砂の量を予測し、必要な貯水量に堆砂容量などをプラスした貯水容量を確保できるように設計する。けれど、上流で土砂崩れが起こるなどして、予測を超える速度で堆砂容量が埋まってくるダムもある。そういったダムでは、貯まった土砂は浚渫して取り除くとして、今後貯まらないようにする方策も必要だ。
また、気候の変化で建設当時に予測された量を大きく超える雨が降ったり、予測を超える日照りが続いたりして、洪水や渇水の発生を抑えられなかったダムもある。
そういったダムたちはどうするのかと言うと、改造して出直すのだ。これをダム業界用語で再開発という。ダム建設業界にとって平成は、新規建設から再開発に軸が移りはじめた時代と言える。たとえば長野県の美和ダム、小渋ダムなどでは貯水池の土砂の堆積を抑える「土砂バイパストンネル」が建設された。また、鹿児島県の鶴田ダム、徳島県の長安口ダムなどは放流設備を増設して運用を見直し、再起を図ろうとしている。
建設工事中の小渋ダム土砂バイパストンネル
放流設備の増設工事中の鶴田ダム
また、渇水や洪水に対応するため貯水量を増やすダムも増えてきている。貯水量を増やすために何をするかと言うと、堤体を嵩上げするのだ。現堤体をそのまま大きく高くするダムもあれば、少し下流にさらに大きな堤体を造る場合もある。それは新規建設と言える気もするけれど、あくまでも目的は現堤体の機能拡張なので再開発、と言うことになるのかも知れない。
嵩上げは昭和初期から行われてきているけれど、平成の世でもたとえば山形県で菅野ダムを嵩上げした長井ダム、北海道の大夕張ダムを嵩上げした夕張シューパロダム、岩手県の石淵ダムを嵩上げした胆沢ダム、青森県の目屋ダムを嵩上げした津軽ダムなどが続々と完成した。
建設中の胆沢ダム(奥)と在りし日の石淵ダム(右)、左上看板の青と白の境目が胆沢ダムの常時満水位
令和の世になって、ダムの新規建設はほどんど見られなくなると思うけれど、さらなる異常気象や人口の一極集中が起こったとき、どこかのダムでいまはまだ明るみに出ていない嵩上げ計画が発動するかも知れない。
クレストゲートとは堤体のいちばん上に設置されている水門のこと。ダムの規模や目的、構造によっても違うのだけど、ある程度以上の大きさの多目的ダムでは、基本的には大雨で上流からの流入量がダムの計画を超え、放流が追いつかずにこのままでは堤体の上を水が乗り越えてしまうかも、というときに限って開けられる、いわゆる最終手段の水門だ。したがって滅多に使われることがない(日常的にクレストゲートを使用する運用のダムもあります)。実際、ダムが完成したときの動作チェック以降、いちども放流したことがない、というダムもあるほど。クレストゲートは開かずのゲートだったのだ、昭和までは。
(ダムにもよるけれど)基本的に通常は使うことがないクレストゲート
しかし平成の中期以降、それまでの沈黙を打ち破って、各地のダムのクレストゲートがよく開いた。そしてこれにはいい意味と悪い意味とがある。
いい意味では、平成17年5月に行われた埼玉県と群馬県にまたがる下久保ダムの点検放流を皮切りに、全国各地で「点検放流ブーム」が起こったことだ。開かずのゲートとは言え、いざという時に確実に動くように、定期的な動作チェックはしていたはずである。しかし、貯水池の水位が高いと開けた瞬間に水が流れ出てしまうため、実態は分からないけれど、これまでは平日か、貯水池の水位が低い夏場などにこっそり行われていたと思われる。
その後のダムイベントの方向性を決定づけた下久保ダムの点検放流イベント
しかし、平成17年5月8日に水資源機構の下久保ダムで行われたクレストゲート点検は、その後の日本のダム界を大きく動かす出来事となった。昭和44年1月の管理開始以来36年を経て、初めて点検に伴う放流を行ったのだ。
これだけでも驚きだけど、さらに画期的だったのは当日が日曜日だったこと。異常気象や事故でもない限り、通常は管理事務所はお休み、わざわざ点検を入れる必要もない。そして、この点検放流は事前にプレスリリースで告知され、「神流湖フェスティバル」と銘打ってダム周辺でいろいろなイベントが行われたほか、通常立ち入り禁止の堤体内エレベーターや監査郎の一部も見学可能となった。
ダムと地元地域がコラボした点検放流(試験放流)イベントの誕生である。もちろん多くの見物客が訪れ、エレベーターにも長い行列ができた。ここから、各地のダムがクレストゲートの点検放流を行うようになり、地元地域とコラボした大規模なイベントが行われるようになっていったのだ。
毎年山奥に数千人が集まる矢木沢ダムの点検放流イベント
悪い意味でクレストゲートが開いた事例は、増え続ける異常気象に伴うものだ。温暖化の影響か、近年は台風が大型化し、集中豪雨などもこれまでより規模が大きくなった。
特にこの10年ほどは各地のダムが流入量の既往最大を更新し、洪水調節容量を使い切って陥落。異常洪水時防災操作(いわゆる『ただし書き操作』)を行うダムが続出した。貯水池の水位がダムの天端を超えて、堤体全体から越流してしまう状況を防ぐため、流入量と同じ量を放流するためにクレストゲートを開けるのだ。
ついにここも陥落した京都の日吉ダム
クレストゲートに関しては、平成時代はいい意味でも悪い意味でも、動かなかったものが動くようになった、歴史の分岐点だったと思う。
平成時代にもっとも注目を集めたダムと言えばここだろう。昭和42年、群馬県長野原町に計画されたまま、猛烈な反対運動などにより30年近く着工できなかった八ッ場ダムだ。
長年の折衝の後、地元とダム推進の協定が締結され、事業がようやく動き出したのは平成6年。工事用道路の建設が始まり、平成20年には川の水を本体工事現場から迂回させる転流工の工事に着手。このまま本体工事開始開始かと思われた平成21年、衆議院議員選挙で「八ッ場ダム中止」のマニフェストを掲げた民主党が大勝して第一党となり、就任した国土交通大臣が中止を明言。ここにきてふたたび事業がストップした。
民主党による事業仕分けなど、世論が公共事業の見直しブームに沸く中、平成23年にさまざまな検証結果から当時の国土交通大臣が建設の再開を決断、平成27年になってついに本体工事が着工された。
建設工事が本格化する前の八ッ場ダム工事現場。目の前にあるのは上流仮締切でこの場所は現在本体コンクリートの中
その後の建設工事は順調に進み、平成31年4月末の時点で本体工事はほぼ終了、今年度中に付帯設備の整備と試験湛水が行われ、竣工を迎える予定になっている。ギリギリ平成には間に合わなかったけれど、2度の政権交代で要因のひとつとなるなど、政争に巻き込まれ紆余曲折を経た八ッ場ダムも、いよいよ完成の時が近づいている。
平成30年春ごろの八ッ場ダム工事現場。平成31年4月時点では本体のコンクリート打設は終了したらしい
政治のことはよく分からないけれど、個人的に八ッ場ダムで印象的なのは、本体工事着工までの非常にネガティブな報道や世論と、着工後に工事事務所や地元が一体となって盛り上げた工事見学の大盛況ぶりである。
特に工事見学は、立ち入り自由の展望台、そして予約不要の見学会、予約制の見学ツアーなどを合わせると年間30万人以上が訪れ、あれだけ連日ネガティブな報道を繰り返していた夕方のニュース番組で特集が組まれるなど、正直言ってここまで180度ムードが変わるとは想像していなかった。
何事もなければあと1年ほどで終了する(編注:2019年4月末時点から)八ッ場ダム建設事業、最後までしっかりと見届けたい。そして新しく生まれたダムによって地元が盛り上がるように、今後もできることを考えていきたいと思っている。
というわけで、だいぶ長くなってしまったけれど、専門家やファンに意見を聞きつつ最終的には僕の独断で、ダムというフィルターを通して平成時代を振り返ってみた。改めて大きな流れを考えると、前半はダムというか公共事業に対する風当たりの強さを正面に受けて窮地に陥りつつ、しかし後半は専門家やファンが一体となってダムの役割や魅力を発信し続けた結果、一般人のダムに対する印象がかなり変わってきて、結果的に終わり良ければ全て良し、と言えるのではないだろうか(いやたいへんな苦労をされた方もいらっしゃると思いますが)。
特に、関係者とファンが良好な関係を築き、ジャンルが順調に盛り上がっているという例は、ほかの趣味界隈と比べてもあまり例がないと思う。令和の時代は、もっと幅広い層がダムに関心を持ってくれることを期待したい。