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【前編】日本武道館をアップデートせよ―山田守建築事務所の挑戦

日本武道館――いわずと知れた我が国屈指の“武道の殿堂”である。当メディア連載中の人はなぜ日本武道館を目指すのかであらためて関心を持った方は多いのではないだろうか。

この日本武道館が建てられたのは1964年のこと。東京1964オリンピックの会場として使用され、その2年後にはビートルズ来日公演の場となり、以来“音楽の殿堂”とも称されたのはご存知の通りだ。

建設中の日本武道館(写真提供/山田守建築事務所)

設計は建築家・山田守率いる山田守建築事務所。そして、56年の歳月を経て開催される2度目の東京2020オリンピックに備え、ふたたび山田守建築事務所は日本武道館に向き合った。増改築設計の大任を担ったのである。

改修後の日本武道館(写真/SS Co.,Ltd. Naohiro Ogura)

56年前の突貫工事の影響はなかったのか。現在の安全基準にどう適合させるのか。“音楽の殿堂”の側面を持つようになったがゆえに設備をどう改めるのか。はたまた新たなアイディアは盛り込まれたのか……などと興味は尽きない。

日本武道館改修をめぐるインタビュー、まずは【設計編】をお届けしたい。

※所属・職位は取材時のものです。
記事初出:『建設の匠』2020年9月28日

顧客喪失の危機を乗り越えて

話をうかがったのは、山田守建築事務所社長の宮原浩輔氏と設計監理部 意匠主任の一級建築士・植松千明さんだ。

山田守建築事務所社長の宮原浩輔氏

設計監理部意匠主任の植松千明さん
※取材は社会的距離を保って実施・インタビュー時はマスクを着用

まずはこの山田守建築事務所(以下、山田事務所)の成り立ちについて、触れておかねばなるまい。

ときは明治。1894年に岐阜羽島にて生を受けた山田守は、東京帝国大学建築学科を卒業し逓信省に入省、営繕課で建築設計に従事する。戦後、逓信省を退職した山田守は建設会社に経営参画するもあえなく倒産。やはり設計畑で生きていこうと決意し、みずからの設計事務所を設立した。元逓信省時代の経験を活かして多くの病院建築設計に携わったのである。

日本武道館を事実上最後の作品として世に送り出したのち、東京1964オリンピックの2年後にその濃密な生涯を閉じた――と宮原氏。「残されているいろいろな本を通じて、我々も後づけの知識として得ました。なにしろウチの事務所で山田守さんに会った人は誰もいないので……」。

そう、山田守建築事務所設立は1949年。山田守が55歳の話である。それから17年後、彼の死去にともない山田守株式会社に組織変更し、日本武道館設計も担当した次男・山田達郎氏が社長に就任した。2002年に会長職に退くまで53年間は「山田家」の建築設計事務所だった。

達郎氏の後を継ぎ、創業家以外の人間で初の社長に就任したのが1981年入社の宮原氏だ。

「達郎さんから『そろそろ引退したいのだが、キミ、どうだ?』と言われて、即座に『とんでもない』と断ったんですけれど(笑)。自分より先輩がたくさんいましたからね。ただ、その当時の役員の中では45歳の自分がいちばん若かった。『あまり高齢の役員に任せるとすぐまた次を選ばなきゃいけなくなるから、一番若い役員にやらせよう』ってことにしたのかもしれませんが」と宮原氏は語る。

とはいえ宮原氏は達郎社長のもとで、逓信省の後を継いだ郵政省や厚生省などの建築設計に従事してきた。「年にふた物件ぐらいはそれなりの規模の郵便局や病院の設計をしていました」というほど忙しい日々を送ってきたとか。そこで山田守イズムをしっかりと叩きこまれたのだろう。

宮原氏の代表作、東京厚生年金病院(2000年、山田守建築事務所提供)

ところで2000年代前半といえば……おりしも小泉内閣により公共事業投資が削減され、郵便局の新規建設がおこなわれなくなっていた時期。追い打ちをかけるように厚生省の外局である社会保険庁も廃止。二大顧客を失った山田事務所はピンチに見舞われる。そのタイミングでの社長職オファーである。

「これはちょっとヤバいな……と思いつつも、『ここで事務所も若返って新しい道を開かないと』と社長職をお受けして……案の定、大変だったんですが(苦笑)。国土交通省(当時は建設省)や法務省など新しいお客さんを開拓し、これまでやったことがない仕事に手を広げて、事務所をなんとか維持していこうと大きく舵を切りました」

所員は15名。大規模な組織設計事務所でもなくこじんまりとしたアトリエ系事務所でもない「ちょっと微妙な立ち位置」(宮原氏)という山田事務所だが、所員の顔がしっかり見えて、それぞれがいま何をしているのかが分かる適切な規模——彼は微笑みながら評した。

意匠と構造どちらも大切に

山田事務所は、入社6年目の植松さん含め、スタッフの3分の1は中途入社組だという。珍しいのは、意匠系だけでなく伝統的に構造系スタッフを在籍させていること。その割合は3分の1と、この規模の設計事務所にしては多いほうだとか。

「建物の意匠と構造という二本柱を社内でおこなっていて、お互いに言いたいことを言い合っています。山田事務所には『意匠系スタッフは構造のことを、構造系スタッフは意匠のことをもっと知らなればいけない』という雰囲気が伝統的にある。設備設計だけは外注していますが、本当は設備についてもよく知らなければいけないと先代からずいぶん言われたので、私は設備設計一級建築士の資格も持っています

建築はトータルな技術の集合体であり総合的な芸術作品である。建築設計は見た目だけ考えていればいいものではないし、構造を外注して「あとはお任せ」的意識になってしまい、あとはどうやって建てているのかも知らない……宮原氏はそれでは良くない、と断言する。

大学在籍時に構造原理主義的だった教員たちに反発し、学生の身分ながら「建築は芸術だ」と分離派建築会を立ち上げた山田守だけれど、自身の名を冠する事務所がいまも意匠と構造のコミュニケーションを大切にしているというのは、なかなか興味深い話だ。

新築された中道場(写真/SS Co.,Ltd. Naohiro Ogura)

ともあれ、いまや歴史上の人物である“山田守”の名を冠する事務所。事務所名のおかげで仕事の依頼が来るようなメリットはあるのだろうか。反面、それを背負うプレッシャーはなかったのか。そう問うと最初は「私が受けて本当にいいのか?」という気持ちはあった、と宮原氏。しかし、こうも言う。

「正直言って、いま“山田守”の名に対するプレッシャーはほとんど感じないです。意識せずに来れたひとつの理由として、官公庁がお客さんなのが大きいのかもしれませんね。ある特定の民間企業や担当者との人間的なつながりで仕事をするのが一般的な設計事務所だと思うんですけれど、ウチの場合はそれがほとんどなくて、だいたいいつもプロポーザルで仕事を獲得しています。だからお客さんとはその都度『はじめまして』なので……」

公共事業でプロポーザル方式が採り入れられた大変な時代に社長になっちゃった」と苦笑しながらこれまでの18年間(編集部注:2020年9月時点で。社長在籍年数はすでに山田守時代を超えている)を振り返る宮原氏。後述するが、時代の変化に柔軟な彼の舵取りのおかげで、事務所は創始者の精神を受け継いで現在まで存続し、令和の日本武道館設計業務を担うことができたのだ。

山田守建築をいかにアップデートするか

さて、本題の日本武道館増改築工事である。

改修された日本武道館本館(写真/SS Co.,Ltd. Naohiro Ogura)

今回の日本武道館の増改築工事についても、「建てる時におたくにやってもらったから今回もヨロシク」というわけではない。公益財団法人日本武道館に対するきめ細やかなコンサルティングの結果として、山田事務所が堂々勝ち取ったものだ。“山田守”の暖簾にあぐらをかきたくても、それはできない。そのぶん、深く行き届いた提案が求められる。

「対外的に『山田守が設計した建築を、いまの事務所メンバーはどんなふうにしていくんだ?』という目で見られているのは強く意識しています。だから今回も設計思想をあらためて勉強し直して、実際、天井裏や屋根など作品の見えないところに潜ったり登ったりして見直しました。すると『こうやって工夫してたんだな』と分かってくる。山田守の設計思想を汚してはいかん、という意識は、今回の増改築で特に強く感じましたね。……まず『隣に中道場なんて建てちゃっていいのか?』というところから(笑)」

新築された中道場(写真/SS Co.,Ltd. Naohiro Ogura)

中道場の屋根は本館バルコニーに連なる。あくまで本館に従う建築だ(写真/SS Co.,Ltd. Naohiro Ogura)

実はこれまで山田守設計の建築をリニューアルした例は、実はほとんどない。病院建築の設計実績が多いからだ。

「私が入社以来ずっと担当していた飯田橋の東京厚生年金病院もそうですが、医療の進歩に伴って機器などの機能要求がどんどん高度化していて、それは古い建物の中にはとても収まりきらない。ゆえに病院は解体して建て直すことが多いんです。それはさすがにどうしようもないのかな、と。山田守設計の病院はどんどんなくなっていって、いまや3件ぐらいしかない」

その中で改修をおこなった稀有な例が、2004年改修の長沢浄水場本館(神奈川県川崎市)である。植松さんが「オレンジの柱を白く塗り直したんですが、ドラマの撮影などにもよく使われています」と教えてくれた。

長沢浄水場の特徴的な”マッシュルーム・コラム”の柱は竣工当時からオレンジっぽい色だった。それを改修にあたって協議する中で「白色にしたほうがいいのでは?」となり、塗り替えた。結果、幻想的な空間が出現したのである。

長澤浄水場(山田事務所HPより)

「ある意味、大正解だった。山田守さんの頭の中にはこういう雰囲気はなかったはず」と宮原氏は自分たちの決めた仕様に太鼓判を押した。後継の面々がオリジナル・デザインを見事にアップデートしたのだ。

さて、今回の日本武道館増改築にあたってはどうか。宮原氏いわく「武道館さんはキャパシティを大きくしたいという要望を強くお持ちだった」。

最初期ではなんと、全面建て替えプランもあったそうだ。

「東京ドームのような競争相手が増えたこともあって、3万人ぐらいは収容できるように――というお話をいただいたので、『3万人を収容する観客席を備えた日本武道館』を設計したんですよ」

「現在の3倍ぐらいのボリュームになって、高さも2倍ぐらいになった絵を描いて『こんなふうになりますけれど』と提案しました。それ以来、建て替えの話はなくなりましたけれどね」

歌舞伎座タワーのような建て替えが不可能なのは、立地も大いに関係している。環境省が管理する国民公園・北の丸公園では、いま日本武道館が建っていること自体が特例であり、奇跡的なのだ。

日本武道館と北の丸公園(写真/SS Co.,Ltd. Naohiro Ogura)

ただ、建て替えしなかったもっとも大きな理由は、年間約350日という圧倒的な高稼働率だ。収益性の高さゆえ、歌舞伎座タワーなどのようにテナント料を稼ぐため拡張する必要性がないのだ。そんな経済合理性もあって、日本武道館は幸いにして全面建て替えではなく、リニューアルの道を選べたのである。

※クレジットの入っていない写真はすべて編集部撮影

後編に続く     

 

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