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建設人事のお悩みに圧倒的熱量で寄りそうメディア

首都高研究家・清水草一コラム【16】1964年から2020年へ。オリンピックイヤーの首都高に涙

編集部 2021年10月25日

1964年東京五輪と首都高がもたらしたもの

2019年、NHKで『東京ブラックホールⅡ』という番組が放送された。1964年の東京にタイムスリップするという内容だったが、そこで取り上げられた、東京オリンピック開催4か月前の世論調査の結果に軽い衝撃を受けた。

それによれば、「今年一番関心があることは」という問いに対して、東京オリンピックと答えた人はわずか2.2%。逆に「オリンピックに金をかけるくらいなら、他にすべきことがあるはずだ」という意見には、58.9%が賛成していたという。

現在のわれわれは、高度成長期を夢のあった時代として懐かしむ風潮が強い。しかし当時の日本人は、決して高度成長に熱狂していたわけではなく、オリンピックに対しても白けていたようだ。

ただ、実際にオリンピックが始まると、折しも家庭に普及し始めていたテレビが国民的熱狂を盛り上げて、結局日本人はオリンピックに夢中になった。

記事初出:『建設の匠』2020年1月27日

 

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オリンピックイヤーである今年(編注:この原稿は2020年1月に公開されました)、同じ世論調査を行ったらどうだろう。

オリンピックを楽しみにしている人は、56年前よりかなり多いだろうし、逆に開催に対して批判的な意見は、ぐっと少ないのではないだろうか。

なぜなら、56年前の東京オリンピックは、間違いなく成功だったからだ。われわれ日本人にとって東京オリンピックは、史上最大級の成功体験と言ってもいい。もちろんその裏には、この番組が描いたようなさまざまな矛盾もあったが、それでも全体としては大成功だったし、逆にオリンピックがなかったら、その後の、そして現在の東京はいったいどうなっていたのかと思わざるをえない。

 

東京オリンピックが東京に残した最大の遺産は、首都高速道路である。

首都高の構想は1953年に誕生し、紆余曲折の末、1957年、東京都建設局都市計画部長だった山田正男氏によって、現在の元となる計画が立案された。2年間内容を詰めた後、1959年に建設が正式に決定。その直前に東京オリンピックの開催が決定し、急遽、羽田空港から都心を経て代々木の選手村および初台までの約30キロを、オリンピックまでに完成させることになった。

残された期間はわずか5年。そこから恐るべき突貫工事が始まる。

いきなり突貫工事を始めることができたのは、ルートの約8割が公有地を通過しており、用地買収が極力抑えられたからだ。これは別にオリンピックに合わせたものではなく、内務官僚・山田正男の経験則が生み出した天才的な現実直視案だった。そのため、羽田から都心部にかけての首都高は、川床や海上、そして道路上を多く走っている。日本橋上空を首都高が通過しているのもそのためだ。

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この案でなかったら、たった5年でゼロから首都高を30キロも完成させるなど、絶対に不可能だった。

オリンピック後も首都高の建設は進み、一時は都心部の交通渋滞はほとんど解消した。もちろん首都高自体もスイスイだった。1965年のデータによれば、首都高の平均速度は時速55キロとなっている。

2020年東京五輪までの渋滞との戦い

首都高の自然渋滞が始まったのは、オリンピック4年後の1968年11月、1号羽田線が東神奈川まで延伸されて間もなくのことだ。最初の渋滞ポイントは浜崎橋ジャンクション。ここを先頭に羽田線上りの渋滞が始まった。

その後首都高は東名、中央道、京葉道路等と次々接続して交通量が増加、ガンの転移のように全身に渋滞が広がっていく。

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その裏には、山田正男が続いて計画していた外環道の建設が、公害反対の声の前に頓挫したという事情もあった。すでにオリンピックは終わり、東京には大義名分になるようなイベントも存在しなかった。

オリンピック開催時に2歳だった私が自動車免許を取得した1980年には、首都高は渋滞地獄と化しており、バブル絶頂の1990年、ピークに達する。バブル期、首都高の平均速度は時速25キロにまで低下した。

が、この年を境に、不況によって首都高の交通量の増加がほぼ止まった。一方建設は続いたため、ついに翌年から渋滞が減少し始めた。現在は1990年当時と比べ半分以下になっている。

とにもかくにも、56年前の東京オリンピックが、首都高の建設を後押ししたことは間違いない。オリンピックがなかったら、あんな強引なことはできなかっただろうから、建設は大幅に遅れ、結果として現在もまだひどい渋滞が残っていた……のかもしれない。

 

私は、56年前のオリンピック開催を心から「よかった」と思うし、今年のオリンピック開催も、心底大歓迎している。

滝クリ様のプレゼンで東京開催が決まった時は、躍り上がって喜んだ。本当の本当に躍り上がって記念写真まで撮った。なぜなら、「これで道路建設が飛躍的に進む!」と思ったからである。

もちろん、オリンピックが決まったからといって、新規の道路計画がバタバタッと実現するわけではない。現在は56年前と違って、計画の決定から完成まで20年はかかる。たった7年じゃ1ミリも完成しない。

ただ、切羽詰まった期限が設定されることによって、既存計画の完成を早める効果は確実にある。

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もちろん現在も、「オリンピックなんかより、他にやるべきことがある」と考えている人は少なくないだろう。オリンピックを道路建設に置き換えても同様だ。

しかし、それでもやっぱり、道路のような公共インフラは、国民の財産なのである。インフラがなかったら経済はそれ以上回らない。経済が回らなければ生活も改善されない。オリンピックを経済の起爆剤にするなんて時代遅れだという意見もあろうが、その効果はまだまだ侮れない。

 

2015年3月7日、首都高中央環状線が全線開通した。これは都心環状線全線開通以来の、首都高にとって革命的な出来事だった。2017年には圏央道茨城区間が開通し、圏央道は東名から中央道、関越道、東北道、そして東関東道までを連結。2018年には外環道千葉区間が開通した。

05図/首都高速道路

外環道東京区間も、オリンピックまでの開通を目標にしていたが、これが間に合わなかったのは痛かった。オリンピックという大きな目標を失った以上、完成はズルズルと遅れて行くだろう。早くてあと5年。ひょっとするともっと遅くなるかもしれない。圏央道の藤沢-釜利谷ジャンクション間も間に合わなかった。こちらも5年以上遅れるだろう。

それでも2020年3月には、首都高横浜北西線が開通する。これまたオリンピックまでの開通を目指してきた路線であり、渋滞の激しい保土ヶ谷バイパスや、ミッシングリンクである外環道の東名-湾岸線区間を補完する重要ルートだ。

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私の実感として、東京オリンピックの開催効果はすでに十分だ。高速道路マニアとしては、オリンピック本番よりもこちらのほうが重要。すでに祝勝会を開きたいくらいである。

写真/PIXTA、photolibrary、編集部

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